松田学 (北海道の政治家)
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松田学 まつだ まなぶ まつだ がく | |
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生年月日 | 1856年9月17日 |
出生地 |
日本 但馬国出石郡水上村 (現・兵庫県豊岡市) |
没年月日 | 1938年1月10日(81歳没) |
前職 | 定山渓鉄道社長 |
所属政党 |
(立憲同志会→) 中立 |
選挙区 | 札幌区選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1914年 - 1914年12月25日 |
初代 札幌市会議長 | |
在任期間 | 1922年10月19日 - 1926年10月 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1922年 - 1934年 |
松田 学(松田 學、まつだ まなぶ[1] / がく[2]、1856年9月17日(安政3年8月19日[2])- 1938年(昭和13年)1月10日[1])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、札幌市会議長。
経歴
[編集]但馬国出石郡水上村(現兵庫県豊岡市)で、庄屋・松田甚次郎の長男として生まれる[2][3]。
1881年6月、徳島県属に任じられ、以後、大蔵省属、根室県収税属、北海道庁属を歴任し、1891年に退官[3]。実業に従事した後、1897年、北海道庁属に再任され、さらに台湾総督府新竹県属、台北県属を務め、1898年に退官した[3]。
その後、札幌に移り、実業界に入った[2][3]。1907年、札幌木材 (株) 取締役に就任[3]。以後、札幌調帯 (株) 取締役社長、定山渓鉄道 (株) 取締役社長、札幌商業会議所第3代会頭などを歴任[3]。
第11回衆議院議員総選挙で北海道庁札幌区から選出された浅羽靖が1914年10月に死去したため、同年11月、補欠選挙に立候補して当選し[4]、衆議院議員を一期務めた[1]。1922年、札幌に市制が施行され、初の市会議員選挙で中立で当選し初代議長に選出された[2][5][6][7]。議長には1922年10月19日から1926年10月まで在職した[5][7]。1926年、1930年の市会議員選挙でも当選している[8][9][注釈 1]。
編著
[編集]- 『北海道地方制度』松田学、1893年。
出典
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』600頁。
- ^ a b c d e 『札幌人名事典』254頁。
- ^ a b c d e f 『北海道人名辞書』第二版、112頁。
- ^ 『官報』第697号、大正3年11月27日。
- ^ a b 『札幌市史 [第1 (政治行政篇)]』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『札幌市会小史 第1・2期 (大正11年10月~昭和5年10月)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『札幌市会小史 第1・2期 (大正11年10月~昭和5年10月)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『札幌市会小史 第1・2期 (大正11年10月~昭和5年10月)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『札幌市会小史 第3期 (昭和5年10月~昭和9年10月)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『新札幌市史 第4巻(通史 4)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『新札幌市史 第4巻(通史 4)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『新札幌市史 第4巻(通史 4)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 札幌市教育委員会文化資料室編『札幌人名事典』〈さっぽろ文庫66〉北海道新聞社、1993年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 金子信尚編『北海道人名辞書』第二版、北海民論社、1923年。