松田勘七
まつだ かんしち 松田 勘七 | |
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生誕 |
日本 北海道函館市 |
職業 | 料理人 |
肩書き | ラーメン店『龍鳳』初代店主 |
松田 勘七(まつだ かんしち、1912年[1] - 1983年)は、日本の料理人。ラーメン店『龍鳳』初代店主。
人物
[編集]北海道函館市出身[1]。大東亜戦争終了後、天津市より引き上げる[1]。
1946年(昭和21年)、札幌市南2条東1丁目に、焼き鳥と酒の屋台を出していたが[2]、『龍鳳』という屋号で、ラーメンを出す屋台を開業する[1]。天津での中華料理で、日本人が、醤油をよく入れていたので、豚骨を煮込んだ出汁に醤油を入れた醤油ラーメンを提供していた[1]。最初の頃は、ラーメンの麺は、鹹水を使わず、重曹を使用していた自家製麺であった[1]。
1947年(昭和22年)になり、西山仙治の開業する『だるま軒』のラーメンの麺が鹹水使用だったので、『だるま軒』の鹹水使用の麺を『龍鳳』で使用する[1]。『龍鳳』の創業をもって、「戦後の札幌ラーメンの原点」と紹介することもある[2]。1948年(昭和23年)、隣の屋台につぶ貝とうどんの屋台を出していた大宮守人にラーメンの屋台を薦め、ラーメンの調理を教える[3]。
1951年(昭和26年)に、南5条西3丁目すすきの東宝公楽横に、店舗の『龍鳳』を構える[1][4]。その後、他のラーメン店が東宝公楽横に営業しはじめ、『公楽ラーメン名店街』として札幌ラーメン横丁の前身が形成されるが、1969年(昭和44年)に道路拡張のため、『公楽ラーメン名店街』は廃止となり、『龍鳳』は札幌市時計台の向かいの北1条西3丁目に移転することとなる[4][5]。1975年(昭和50年)に、松田勘七は、『札幌市ラーメン店味の会』の初代会長に選ばれている[5]。1976年(昭和51年)には、『龍鳳』で、自家製麺を再開し、中細麺を提供している[5]。なお、『龍鳳』は、2006年(平成18年)までは、営業していたことを確認できるが[5]、2008年(平成20年)に閉店したという情報がある[6]