松浦豊一
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松浦 豊一 | |
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生誕 |
1890年10月1日 日本 長崎県 |
死没 | 1966年4月16日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
松浦 豊一(まつうら ほういち[1]、1890年(明治23年)10月1日[2] - 1966年(昭和41年)4月16日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]1890年(明治23年)に長崎県で生まれた[2]。陸軍士官学校第24期卒業[3]。1937年(昭和12年)に留守第20師団兵器部長に就任[1]、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級し[1]、7月15日に歩兵第81連隊長(中支那派遣軍・第17師団・第17歩兵団)に着任[4]、日中戦争に出動した[2]。蘇州、徐州に駐屯し[2]、宜昌作戦、春期晥南作戦、などの各作戦に参加した[2]。1940年(昭和15年)8月に関東軍歩兵第1下士官候補者隊長に転じ[4]、1941年(昭和16年)6月28日に北支那方面軍司令部附を経て[4]、8月20日に保定幹部候補生隊長に就任した[4]。
同年8月25日に陸軍少将に進級し[1]、1942年(昭和17年)11月に独立混成第2旅団長(駐蒙軍)に就任[2]。張家口に駐屯し、周辺の警備に当たった[3]。1944年(昭和19年)11月5日に中部軍兵務部長に転じ[2]、1945年(昭和20年)2月1日に中部軍管区兵務部長[5]、3月31日に中部軍管区兵務部附を経て[6]、4月30日に長崎連隊区司令官兼長崎地区司令官に就任[7]。同年10月18日に久留米師管区司令部附となった[8]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]。
栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]- ^ a b c d 外山 1981, 320頁.
- ^ a b c d e f g h 福川 2001, 674頁.
- ^ a b 福川 2001, 675頁.
- ^ a b c d 外山 1981, 321頁.
- ^ 「第24号 昭和20年2月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120932700
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 「第101号 昭和20年5月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120941200
- ^ 「第3号 昭和20年10月20日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120947900
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
- ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。