松浦寛威
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松浦 寛威 | |
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生誕 |
1867年1月3日 日本 筑後国(福岡県) |
死没 | 1928年12月9日(61歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1888年 - 1923年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
松浦 寛威(まつうら ひろたけ[1]、1867年1月3日〈慶応2年11月28日[2]〉- 1928年〈昭和3年〉12月9日[3])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[1]。
経歴
[編集]筑後国(現福岡県[注釈 1])で久留米藩郷士松浦虎作の長男として生まれ、1888年(明治21年)11月に家督を相続した[2][4]。
1888年7月、陸軍士官学校旧10期を卒業し、陸軍歩兵少尉任官[1][2][3]。1890年(明治23年)8月、陸軍戸山学校に入学[2]。日清戦争、日露戦争に出征した[2]。
陸軍士官学校生徒隊付同教官、遼東守備軍司令部付、熊本地方幼年学校長などを歴任[4]。1910年(明治43年)11月、歩兵大佐に昇進し中央幼年学校長に就任[1]。
1915年(大正4年)8月、陸軍少将に進み歩兵第34旅団長に就任[1][3]。1919年(大正8年)7月、陸軍中将に進み第9師団長に親補された[1][3][5]。シベリア出兵で出征し、ザバイカル方面で活動した[3]。
1922年(大正11年)11月に待命となり、1923年(大正12年)3月、予備役に編入された[1][3]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸軍将官辞典』675頁では兵庫としているが誤り。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』1928年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。