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松村雄之進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松村雄之進
まつむら ゆうのしん
生年月日 1852年3月11日
出生地 日本の旗 日本 筑後国久留米鍛冶屋町
(現・福岡県久留米市
没年月日 (1921-02-22) 1921年2月22日(68歳没)
前職 上川支庁
(現上川総合振興局
所属政党立憲帝政党→)
無所属

選挙区 福岡県久留米市選挙区
当選回数 1回
在任期間 1902年8月10日 - 1902年12月28日
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松村 雄之進(まつむら ゆうのしん、1852年3月11日嘉永5年2月21日[1]) - 1921年大正10年)2月22日[2])は、明治・大正期の政治家衆議院議員(1期)。

生涯

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筑後国久留米鍛冶屋町(現福岡県久留米市中央町)で神官の家に生まれる[3][4][5]。17歳で故郷を離れて京都摂津で諸藩の名士と親交を持ち国事に奔走した[3][4]。1872年(明治4年大楽源太郎久留米藩に逃れたことにより藩主が政府の嫌疑を受けたため、同志と大楽を暗殺して禁獄7年の刑に処せられた[1][3][4][6]久留米藩難事件)。

1878年(明治11年)に出獄[6]。1880年(明治13年)3月、旧久留米藩士を集めて福島県に移住して安積原野開拓を開始し、久留米開墾社を設立して副社長、社長を歴任した[1][2][3][4][6]

1882年(明治15年)立憲帝政党に参加[1][5][6]大阪に移り大阪府警部補、同検疫委員となるが、半年で辞して神戸で茶輸出商となり中央茶業組合議員を務めた[2][6]

1895年(明治28年)日清戦争に従軍し、陸軍省雇員、澎湖島行政庁書記を務めた[2][6]台湾総督府設置後、新竹支庁長に就任し『台湾制度考』の編纂に参加[1][6]。その後、総督府官有物取調委員長、台中県雲林支庁長、台湾国語伝習所長を歴任した[1][2][3][4][6]。雲林支庁長は土匪の対処をめぐって1896年(明治29年)9月2日に免本官、従七位返上を命じられる[7][8]

1897年(明治30年)12月、北海道庁に転じ、宗谷支庁長、北海道衛生会委員、宗谷検疫事務所長、上川支庁長を歴任した[2][3][4][6]

1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で福岡県久留米市から出馬して当選したが、次の総選挙には出馬せず衆議院議員を1期務めた[1][2][3][4][6]。その後は在野の活動家として満蒙問題、国体擁護運動などで活躍した[3][4][6]

伝記

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  • 吉富莞爾編『松村雄之進』吉富莞爾、1921年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『日本人名大辞典』1786頁。
  2. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』605頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『久留米人物誌』463頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『福岡県先賢人名辞典』62頁。
  5. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』1588頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『福岡県人物・人材情報リスト 2013』第1巻、73頁。
  7. ^ 台中県支庁長松村雄之進懲戒例ニヨリ本官被免ノ件
  8. ^ 官報 1896年9月3日 二六頁

参考文献

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  • 篠原正一『久留米人物誌』久留米人物誌刊行委員会、1981年。
  • 三松荘一編『福岡県先賢人名辞典』葦書房、1986年(文照堂書店1933年刊の復刻)。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 『福岡県人物・人材情報リスト 2013』第1巻、日外アソシエーツ、2012年。