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松村慶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松村 慶子(まつむら けいこ、1931年10月3日 - )通称おけいさんは、日本で2番目の女性レコードディレクター。

概要

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ポリドール時代に「コーヒールンバ西田佐知子)」、「ヴァケーション青山ミチ)」「何もいわないで園まり)」の大ヒット曲をプロデュースし、菅原洋一佐川満男を売り出し、中村泰士なかにし礼を見出す。

小澤淳J&Kを立ち上げ後に寺本幸司が加わる。J&Kで小室哲哉を見出しTM NETWORKをデビューさせる。[1]

夫はザ・タイガースをプロデュースしたポリドールの音楽ディレクター松村憲男。松村憲男はむつひろしのペンネームでグッド・ナイト・ベイビーザ・キング・トーンズ)、昭和枯れすゝきさくらと一郎)、どしゃぶりの雨の中で和田アキ子)を作曲。現在ライブハウス、ルイードチェーン、新宿Reny,赤坂Reny2などのライブハウス会長。

来歴

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藤原喜十一の次女として東京池袋に1931年10月3日に生まれた。

1946年都立第十女学校入学。

1949年富士銀行兜町支店勤務。

1951年大学入学資格検定試験合格後女子美術大学入学。

1952年女子美術大学の寮に入る。母親が経営していた東長崎の旅館、朝霧の米軍駐屯地近くのバーを手伝う。 

女子美術大学時代に東映大泉撮影所の美術の助手をする。

1956年女子美術大学卒業後女性バンドを率いる「ケイコ企画室」を作る。

1958年「ケイコ企画室」閉鎖。

1960年10月ポリドールのレコード・ディレクターになる。日本で2番目の女性ディレクター。

1961年5月、高城丈二で「北上河原の初恋」をプロデュースし発売。同じ曲の和田弘とマヒナスターズの「北上夜曲」に先行発売であった。「北上夜曲」は大ヒット曲になり「北上河原の初恋」もスマッシュヒットした。

1961年9月、西田佐知子で「スクスク」「コーヒールンバ」プロデュースし発売。

1962年11月、青山ミチで「ヴァケーション」プロデュースし発売。

1964年10月、園まりで「何もいわないで」プロデュースし発売。爆発的なヒット

1965年5月26日松村憲男と結婚

1965年7月、青山ミチで「涙の太陽」プロデュースし発売。

1965年11月、菅原洋一で「知りたくないの」「恋心」プロデュースし発売。作詞家なかにし礼発掘。

1966年1月、園まりで「逢いたくて逢いたくて」プロデュースし発売。ポリドールのレコードセールス記録

1966年8月、園まりで「夢は夜ひらく」プロデュースし発売。ポリドールのレコードセールス記録  中村泰士見出す。加藤登紀子プロデュース

1967年、芸映の鈴木力と寺本幸司に誘われマイナーレーベルのレコード会社、アビオンにたった一人の音楽ディレクターとして浅川マキを伴い入社。アビオンにて浅川マキに帆歩健太作詞、小林亜星作曲「東京挽歌」と浅川マキ作詞作曲「アーメン次郎」プロデュース。冠二郎大原麗子「ピーコック・ベイビー」プロデュース。

1967年アビオン退社

1967年11月松村慶子・小澤惇の二人で音楽出版ジュンアンドケイ(J&K)を設立後に寺本幸司を&として誘う[2]

『J&K』の会社の業績。

1968年、ロス・インディオスロス「コモエスタ赤坂」。菅原洋一「知りたくないの」。

ザ・キングトーンズ「グットナイトベイビー」は松村慶子の夫松沼憲男が作曲しその曲の著作権をジュンアンドケイに預けた。130万枚のヒット。 佐川満男で作詞作曲中村泰士「今は幸せかい」リリース。

1969年、浅川マキで作詞・作曲:浅川マキ「夜が明けたら」作詞:寺山修司・作曲:山本幸三郎「かもめ」リリース。

1970年、浅川マキ初LP「浅川マキの世界」をリリース。ベトナム戦争や国内学生運動など混沌とした時代、若者達の間ではカリスマ的存在となり日本に於ける。アンダーグラウンドを主体とした音楽活動の第一人者である。菅原洋一「今日でお別れ」をリリースし、レコード大賞を受賞。

1971年、小椋佳「少しは私に愛を下さい」を手がけ大ヒット。

1972年、りりィ 「たまねぎ」でLPデビュー(寺本幸司プロデュース)。

桑名正博率いるロックバンド・ファニー・カンパニーがデビュー。 “西のファニカン・東のキャロル”と湧き上がったロックバンドブームの主役に駆け上がった。ライブハウス 「新宿ルイード」を設立。

1973年、リリィ、ファニー・カンパニーを引き連れ寺本幸司ジュンアンドケイを母体として独立(モス・ファミリー)。麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」 リリース。

1974年、ダ・カーポ「結婚するって本当ですか」。

1975年、フォーク・ポップス・ロックと若者の音楽志向が多様化していき「ニューミュージック」という新たなジャンルが誕生していった。伊東ゆかり「わたし女ですもの」。りりィ「私は泣いています」(モス・ファミリー)。

1976年、森田童子「ぼくたちの失敗」。しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」リリース年、ど制作。

1978年、東京の人口がドーナツ化現象を起こしはじめ、TVでは新しいアーティスト発掘番組が人気だった。J&K 「八王子音楽祭」開催。

1979年、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」をリリース。130万枚のセールスを記録(モス・ファミリー)SPEED年、WAY「ジャスト・ラブ・ストーリー」リリース。

1980年、港区麻布十番にレコーディング・スタジオ「JAK」を設立。

1981年、泰葉 「フライディチャイナタウン」リリース。

1982年、欧陽菲菲「LOVE年、IS OVER」リリース。

1983年、1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニュー・ウェイヴという新たな音楽ジャンルを日本で確立した。「YMO」がムーブメントの中心にいた頃、インストではなく、切れのいい歌を入れたユニット 「TM NETWORK」が結成され、翌、1984年「金曜日のライオン」でデビュー。

1984年、芦屋雁之助「娘よ」リリース。

1987年、ザ・コレクターズ アルバム「僕はコレクター」でデビュー。 

1988年、ライブハウス「原宿ルイード」を設立。後に1992年accessがデビューライブを行った場所でもある。

外部リンク

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参考

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  1. ^ https://m.facebook.com/kiramekiplus/posts/1385420358247475/
  2. ^ http://www.jkmusic.co.jp/company/chronology