コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松延玹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松延 弦
生年月日 1845年1月??
没年月日 (1921-09-20) 1921年9月20日(76歳没)
前職 芝罘領事館副領事
現職 日本製鉄社長
所属政党 無所属

選挙区 茨城県第1区
当選回数 1
在任期間 1890年7月1日 - 1891年12月25日
テンプレートを表示

松延 玹(まつのべ げん、1845年弘化2年1月[1][注 1]〉 - 1921年大正10年〉9月20日[1])は、明治から大正時代の政治家実業家衆議院議員(1期)。

経歴

[編集]

水戸出身[2]弘道館に学ぶ[1]1871年(明治4年)藩命を受け諸国を遊歴したのち帰郷し、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては北京に渡った[2]1876年(明治9年)在北京公使館附学生となり、1878年(明治11年)書記生となった[2]。翌年、上海領事館に転任[2]1882年(明治15年)朝鮮壬午軍乱が勃発すると花房義質の随伴員として同地に赴いた[2]1884年(明治17年)帰朝し外務省一等属となるが、間もなく朝鮮で甲申政変が勃発すると井上馨に従い再び同地に赴いた[2]。ついで奏任御用掛を経て、芝罘領事館副領事となり1887年(明治20年)帰朝し翌年職を辞して帰郷した[3]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から出馬し当選[1]。衆議院議員を1期務めた[1]。その後、日本製鉄[注 2]を創立した[1][注 3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『明治新立志編』328頁では弘化2年11月生、『茨城県衆議院議員候補士列伝 第1編』10頁では嘉永3年生と生年月日に揺れがあるが本項では『議会制度七十年史 第11』のものを採用した。
  2. ^ 昭和9年に設立した半官半民の国策会社の日本製鐵とは異なる。
  3. ^ また清国雲南省干崖宣撫使衙門顧問として招聘された[衆議院、参議院 編 1962, 469頁]。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 衆議院、参議院 編 1962, 469頁.
  2. ^ a b c d e f 篠田 1891, 328頁.
  3. ^ 篠田 1891, 328-329頁.

参考文献

[編集]