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松平新右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平新右衛門
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正3年(1575年[注釈 1][2][注釈 2]
主君 徳川家康信康
氏族 松平氏[4]
父母 松平太郎右衛門、母[5]
兄弟 姉(鈴木墨右衛門重辰の妻)[5]
柴田右森の娘[5]
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松平新右衛門(まつだいらしんえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士

徳川家康の嫡男・松平信康の家臣であったが、同輩の大賀弥四郎に加担し謀反を計画。その計画が露呈した翌日に大樹寺の正門前にて切腹した。[3]

出自

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『岡崎市史 第参巻』では松平九郎左衛門 能見城ヨリ、新右衛門トモ云という記載がある。[6]

出生地は不明だが、欠の郷/欠村(現在の愛知県岡崎市欠町元欠町根石町栄町朝日町4丁目、若宮町3丁目[7]、及び西欠町)に古屋敷があったとされる。[8][5][注釈 3]

人物

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大賀弥四郎江戸右衛門七とともに松平信康岡崎城主に就いた時の岡崎町奉行を務めた。[9][5]


脚注

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注釈

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  1. ^ 『新編岡崎市史 近世2』は謀反が起こった月を4月の事としている[1]
  2. ^ 『岡崎東泉記』では謀反が起こった月を10月の事としている[3]
  3. ^ 『三州諸士出生記』をはじめとする三河武士の出生録でも欠村の旗本として松平新右衛門の名が記載されている。[5]

出典

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