松平定知 (旗本)
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 正保2年(1645年) |
死没 | 宝永5年3月6日(1708年4月26日) |
改名 | 吉五郎、定主 |
別名 | 大蔵、数馬、空賢 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 三河刈谷藩世嗣 |
氏族 | 久松松平家 |
父母 | 父:松平定政、母:永井尚政娘 |
兄弟 |
定澄[1]、定知、定清、松平定員正室、 女子、女子 |
子 |
松平定充、松平定盈室、松平定爲[2]室 養子:松平定盈[3] |
松平 定知(まつだいら さだとも)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。
略歴
[編集]三河国刈谷藩2万石を治めた松平定政の次男として誕生した。母は永井尚政の娘。
2代藩主となるはずだったが、父の定政が慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光の死去後、幕政に意見しさらに無届で東叡山寛永寺で遁世落髪したため、狂気の沙汰として改易された。定知ら家族も父に連座して蟄居させられ、定政の兄の松平定行(伊予国松山藩)に預けられた。蟄居といえど定政には給米2千俵を与えられていたため、貧困していたような状態ではなかった。
寛文12年(1672年)に父が死去した後に江戸に召し返され、給米2千俵のうち1千500俵を与えられて寄合に列した。[4]元禄10年(1697年)に下野国安蘇郡で知行地1千500石を与えられ、異母兄・定澄と共に定政系の旗本久松松平家として存続した。