松尾国松
松尾 国松(まつお くにまつ、1874年(明治7年)7月29日[1] - 1958年(昭和33年)1月17日)は、大正期、昭和期の日本の政治家。岐阜市長(1925年3月7日~1946年6月7日)。貴族院議員(1946年3月22日~1947年5月3日)。
長男は松尾吾策。国松と同じく岐阜市長を務めている。
略歴
[編集]岐阜県の吏員を経て、1925年(大正14年)3月7日、岐阜市長に就任する。以後1946年(昭和21年)6月7日までの約21年務める。また、1946年(昭和21年)3月22日からは貴族院勅選議員となり[2]、約3ヶ月は岐阜市長と貴族院議員を兼任している。貴族院議員は1947年(昭和22年)5月2日に廃止されるまで務めた[3]。その後、公職追放となる[4]。
岐阜市長の在任中の業績としては、都市計画による区画整理、上下水道の整備がある。岐阜市の上水道は1928年(昭和3年)から、下水道は1934年(昭和9年)から整備されるが、その整備事業のさい、百々ヶ峰の南山麓にある池(1885年にヨハニス・デ・レーケの指導を仰ぎ建設された農業用貯水池。1891年の濃尾地震で破損)の改修を行なっている(現松尾池。松尾国松の名前から名づけられている)。また、1933年(昭和8年)から1939年(昭和14年)の岐阜市内の長良川改修工事にも尽力している。
1932年(昭和7年)には市立岐阜薬学専門学校(現岐阜薬科大学)を創立するなど、教育にも力を注いでいる。1941年(昭和16年)には岐阜市診療所を新築移転し、岐阜市民病院を開設している。
1956年(昭和31年)、岐阜市名誉市民となる[5]。 1958年(昭和33年)に岐阜市立図書館の開館のさい、生前の愛読書約4,000冊が寄贈されている。戦前を中心とした書籍であり、松尾文庫として配架されている。
人物
[編集]- 土木関係の知識があり、1939年には『濃尾に於ける輪中の史的研究』を大衆書房から発行している。
- 平和主義者であり、岐阜市民のために力を尽くしたという。太平洋戦争時、空襲になったら金華山に逃げるように指示をしていたという。このことを憲兵から叱責を受けたが、「市民の命を守るのが市長の務めである。」と反論したという。戦後は中国人捕虜送還委員長を務めている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年 。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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