松尾兵部少輔
時代 | 戦国時代 |
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改名 | 兵部丞→兵部少輔 |
別名 | 朝倉兵部少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 朝倉義景 |
氏族 | 朝倉氏支流松尾氏 |
妻 | 前妻、阿茶(山科言継の娘) |
子 |
前妻との子:タツ、石 阿茶との子:源吉郎、勝吉郎、彦三郎、平吉郎 |
松尾兵部少輔(まつお ひょうぶのしょう)は、戦国時代の越前国の武士。松尾兵部丞、朝倉兵部少将とも[1]。
出自
[編集]朝倉氏の一族で、朝倉広景の三男・松尾宗景の末裔。宗景は越前国足羽郡木田庄松尾に住んだことで松尾氏を名乗り、朝倉高景と争い殺されたとされる。
概要
[編集]『言継卿記』によると、越前国の島田(河口荘関郷島田村、現在の福井県坂井郡坂井町)に居住していた[1]。
永禄3年(1560年)から同5年(1562年)の間に山科言継の娘である阿茶と結婚している。永禄6年(1563年)8月には2人の間に第1子が誕生している。この際、阿茶は自身が31歳であり、(当時としては)高齢出産であったことを憂いている。また、同8年7月には第2子が生まれている[1]。
天正元年(1573年)から同3年(1575年)にかけての織田信長による越前国攻略の際には、詳細は不明であるものの、生き延びて加賀国江沼郡の松山城に居城し、柴田勝家の配下となっている[1]。
子供
[編集]『言経卿記』には、兵部少輔の子供に関する記述が残されている。
娘の石は文禄2年(1594年)閏9月12日に山科言経や武井夕庵に書状を送っている。また、言経も文禄3年(1595年)8月18日に兵部少輔の子供たちやその母(阿茶、言経の異母姉)に書状を送っている。大阪の杉山与右衛門尉と結婚している。
松尾勝吉郎は、越中国射水郡守山に住んでいたとされ、言経が勅勘を被り摂津国の中島に滞在していた頃(文禄年間、1593年〜1596年)に言経のもとに尋ね来て、大村由己を通して豊臣秀吉に仕えることを望んだという。
松尾彦三郎は、天正16年には越中孫四郎(前田利長)に仕え、文禄3年(1595年)7月21日に「奥州南部主馬」に仕えたことを報告している。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 清水克行「山科言継をめぐる三人の女性:実母・愛人・長女」『史観』第154号、早稲田大学史学会、2006年3月、1-16頁、ISSN 03869350、NAID 110004736756。