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松前資広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松前資広
時代 江戸時代中期
生誕 享保11年9月29日1726年10月24日
死没 明和2年3月19日1765年5月8日
改名 栄吉、里広、定広、資広
戒名 英麟
墓所 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺
官位 従五位下若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前邦広土橋武則の娘・梅好子
兄弟 資広、染町、女子、柳生俊則広保、斐斗子、器四郎、広長、奴千、利和子
正室八条隆英の娘・弁子
側室長倉貞義の娘・勘子
道広、照子、池田頼完難波武広、秀子、蠣崎広文波響、玉子、古田信真
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松前 資広(まつまえ すけひろ、旧字体松󠄁前󠄁 資󠄁廣)は、江戸時代中期の大名蝦夷地松前藩の第7代藩主官位従五位下若狭守

略歴

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享保11年(1726年)、第6代主・松前邦広の長男として誕生。

元文5年(1740年)11月15日、8代将軍・徳川吉宗にお目見えする。同年12月21日、従五位下若狭守に叙任する。寛保3年(1743年)8月16日、父・邦広の死去により、家督を相続する。

明和2年(1765年)3月19日、死去。享年40。

系譜

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父母

正室

側室

正室

脚注

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  1. ^ 蠣崎広年。