松前資広
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保11年9月29日(1726年10月24日) |
死没 | 明和2年3月19日(1765年5月8日) |
改名 | 栄吉、里広、定広、資広 |
戒名 | 英麟 |
墓所 | 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺 |
官位 | 従五位下若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 蝦夷松前藩主 |
氏族 | 松前氏 |
父母 | 父:松前邦広、母:土橋武則の娘・梅好子 |
兄弟 | 資広、染町、女子、柳生俊則、広保、斐斗子、器四郎、広長、奴千、利和子 |
妻 |
正室:八条隆英の娘・弁子 側室:長倉貞義の娘・勘子 |
子 | 道広、照子、池田頼完、難波武広、秀子、蠣崎広文、波響、玉子、古田信真 |
松前 資広(まつまえ すけひろ、旧字体:松󠄁前󠄁 資󠄁廣)は、江戸時代中期の大名。蝦夷地松前藩の第7代藩主。官位は従五位下若狭守。
略歴
[編集]享保11年(1726年)、第6代藩主・松前邦広の長男として誕生。
元文5年(1740年)11月15日、8代将軍・徳川吉宗にお目見えする。同年12月21日、従五位下若狭守に叙任する。寛保3年(1743年)8月16日、父・邦広の死去により、家督を相続する。
系譜
[編集]父母
正室
- 弁子 ー 八条隆英の娘
側室
- 勘子 ー 長倉長左衛門貞義の娘
正室
脚注
[編集]- ^ 蠣崎広年。