杵村久蔵
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杵村 久蔵 | |
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生誕 |
1891年(明治24年)12月28日 日本 鳥取県 |
死没 | 1938年(昭和13年)8月2日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1913年(大正2年) - 1938年(昭和13年) |
最終階級 | 陸軍少将 |
墓所 | 多磨霊園 |
杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12月28日 - 1938年(昭和13年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]鳥取県米子市立町の農家に生まれた。父梅蔵は糺山のあたりで百姓をしていたという。
米子中学(現在の米子東高校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。さらに中尉のとき、陸軍大学校(32期)に入校。同校を優等で卒業、恩賜の軍刀組であった[1]。アメリカ駐在を経験している。
少壮気鋭の尉官時代、皇族李王家の御付武官をつとめた。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し、朝鮮軍隷下第20師団参謀長に任命される。
1937年(昭和12年)7月、日中戦争が勃発すると中国に派遣され、翌年の1938年(昭和13年)8月、山西省でチブスにかかって戦病死し陸軍少将に進級した。
人物像
[編集]杵村の甥浜田明の話によると杵村は同級生の松下芳三郎(台湾、朝鮮、満州で活躍した名行政官)と親しく交際していた模様で、同君が米中卒業後直ぐ満州に渡って、松下のもとで働いたのは、杵村の指図によるものだったという。[2]
脚注
[編集]- ^ 米子中学(現在の米子東高校)出身者で陸大を恩賜で出たのは、この杵村のほか、もうひとり戦争中沖縄守備軍の高級参謀をつとめた八原博通がいる(『勝田ヶ丘の人物誌』、197頁)。
- ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』、198頁。
参考文献
[編集]- 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年、195-198頁)
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。