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東都浅艸本願寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東都浅草本願寺から転送)
『東都浅艸本願寺』
作者葛飾北斎
製作年1830年天保元年)から1834年(天保5年)ごろ[1][注釈 1]
種類多色刷木版画
寸法25.7 cm × 38.4 cm (10.1 in × 15.1 in)

東都浅艸本願寺」(とうとあさくさほんがんじ)は、葛飾北斎名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図[3]。落款は「前北斎為一笔」とある[4]

概要

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本作品は東京都台東区西浅草に建立された東本願寺から見える富士山を描いたもので、本堂の屋根上で瓦の修繕を行う職人と、井戸を掘るための櫓、高々と舞い上がる奴凧を配置している[5]。東本願寺はもともと光瑞寺として神田明神の下にあったが1657年(明暦3年)の大火で浅草に移転し、一万五千余坪という広大な敷地と巨大な屋根を持つ本堂で江戸庶民からも広く知られていた[5][6]

河村岷雪『百富士』「玉嶌山」

北斎は屋根上の職人を意図的に小さく描くことで東本願寺の巨大さを強調している[7]。また、余計な情報を挟まぬよう雲で中景を隠すことで、東本願寺本堂の大きな破風と富士山の三角形の対比を際立たせる技法が用いられており、画角にリズム感や安定感を醸しだす意図が見られる[8]

日野原健司は北斎が広く一般に認知されている浅草寺でなく東本願寺を画題として選定した理由として、河村岷雪の『百富士』「玉嶌山」より、東本願寺の屋根と富士山の三角形の対比という着想を得たのではないかと指摘している[8]。岷雪の「玉嶌山」では東江寺[注釈 2]から見た富士山とともに隅田川と浅草寺、東本願寺が俯瞰的に描かれている[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 刊行年については柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある[2]
  2. ^ 当時は東京都墨田区東駒形にあった[8]

出典

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  1. ^ 北斎年譜”. 島根県立美術館の浮世絵コレクション. 島根県立美術館. 2022年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月3日閲覧。
  2. ^ 磯崎 2021, p. 124.
  3. ^ 日野原 2019, pp. 86–87.
  4. ^ 日野原 2019, p. 212.
  5. ^ a b 日野原 2019, p. 88.
  6. ^ 冨嶽三十六景《東都浅艸本願寺》”. 文化遺産オンライン. 日本文化庁. 2024年7月19日閲覧。
  7. ^ 冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺”. 島根県立美術館の浮世絵コレクション. 島根県立美術館. 2024年7月19日閲覧。
  8. ^ a b c d 日野原 2019, p. 89.

参考文献

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  • 日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年。ISBN 978-4-00-335811-5 
  • 磯崎康彦北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年、124-109頁http://hdl.handle.net/10270/5478