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東海道金谷ノ不二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『東海道金谷ノ不二』
作者葛飾北斎
製作年1830年天保元年)から1834年(天保5年)ごろ[1][注釈 1]
種類多色刷木版画
寸法26.0 cm × 38.7 cm (10.2 in × 15.2 in)

東海道金谷ノ不二」(とうかいどうかなやのふじ)は、葛飾北斎名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図[3]。落款は「前北斎為一筆」とある[4]

概要

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本作品は東海道五十三次宿場町のひとつ、金谷宿から見た大井川の景観を選定しており、大人数で川越を行う様子が細々と描かれている[5]。大井川は江戸幕府の防衛拠点地域とされており、橋を架けることや渡し舟を使用することが禁止されていたため、川越制度によって人足の肩にまたがったり、彼らが担ぐ連台に乗って渡河する必要がある東海道の難所のひとつであった[5]。通行の可否は天候や水量に左右され、脇通四尺五寸[注釈 2]を超えると足止めが行われることから、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といった馬子唄が詠まれるほどであった[6]。また、浮世絵の画題としても富士山の景勝地としても高い知名度を誇っており、絵師にとっては定番のひとつとも言える場所であった[7]

作品内には大井川を渡る旅人や人足を中心に百人を超える人物が描かれており、『冨嶽三十六景』のなかでも最も登場人物の多い作品である[5]。大きくうねる大井川の向こう岸は駿河国になり、玄関口である島田宿の街並みと存在感のある富士山が雄大に描かれている[5]。島田宿側に築かれている堤防の高さが異様を誇っているが、これほどの高さがあるといった記録は無く、北斎による造形上の創作であると考えられている[8]版元西村屋与八の宣伝が数多く含まれており、島田宿に掲げられた旗には「永」の字が刻まれ、連台や旅人の風呂敷には「寿」の字がつけられている[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 刊行年については柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある[2]
  2. ^ 脇の下までの水深が約136センチ以上の状態[6]

出典

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  1. ^ 北斎年譜”. 島根県立美術館の浮世絵コレクション. 島根県立美術館. 2022年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月3日閲覧。
  2. ^ 磯崎 2021, p. 124.
  3. ^ 日野原 2019, pp. 182–183.
  4. ^ 日野原 2019, p. 212.
  5. ^ a b c d 日野原 2019, p. 184.
  6. ^ a b 版画芸術 2024, p. 55.
  7. ^ 日野原 2019, p. 185.
  8. ^ 安村 2010, p. 43.
  9. ^ 冨嶽三十六景《東海道金谷ノ不二》”. 文化遺産オンライン. 日本文化庁. 2024年8月12日閲覧。

参考文献

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  • 安村敏信「北斎 冨嶽三十六景の旅 天才絵師が描いた風景を歩く」『太陽の地図帖』 5巻、平凡社、2010年。ISBN 978-4-582-94532-4 
  • 日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年。ISBN 978-4-00-335811-5 
  • 磯崎康彦北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年、124-109頁http://hdl.handle.net/10270/5478 
  • 『版画芸術』 203巻、阿部出版、2024年。ISBN 978-4-87242-579-6