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東宮福晋ジャルート・ボルジギト氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャルート・ボルジギト氏(Jarud Borjigit hala、扎魯特博爾済吉特氏、? - 1635年以後)は、の太宗ホンタイジの側室。東宮福晋(とうぐうフジン)に封じられたが、離縁された。ジャルート旗ボルジギト氏の出身。

経歴

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後金天聡6年(1632年)、ホンタイジに嫁ぎ、側福晋(側室)となった[1]。東宮福晋と称された。美貌があったため、寵愛を受けた。

東宮福晋は女子を2人産んだが、天聡9年(1635年)、ホンタイジは産褥期の東宮福晋を葉赫那拉氏の南褚に妻として下賜した。その後、ホンタイジはハルジョルを新たに東宮福晋に封じた。

女子

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  • 固倫公主
  • 皇九女(1635年11月5日 - 1642年)

いずれもホンタイジの娘。

伝記資料

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脚注

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  1. ^ 『満文老檔』天聡六年 二月 十二日,汗集諸貝勒大臣於内廷筵宴、以戴青貝勒之女冊為東宮福晋。此福晋乃蒙古扎魯特部戴青貝勒之女。汗已冊立中宮福晋西宮福晋、惟東宮未立福晋。時値選賢、遂遣人往聘此福晋。轉諭其父曰:「我召來觀之、中則留於宮内、不中則遣之還。」遂召福晋至、暫憩城外。汗命有眼力者往觀可否留於宮中。觀者前來報於汗曰:「無需眾多人、汗宜斟酌而行。他人觀之豈可相信乎?汗應親往觀之。若可冊為東宮福晋、宜按典禮聘之矣。」汗遂親率從者數人往觀之、迎入内廷。非好多娶、按例需備三福晋。以聘禮設宴。是宴也、殺牛一、羊六、治筵二十席。