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東チモール県知事日記

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東チモール県知事日記』(ひがしチモールけんちじにっき)は、伊勢崎賢治の著作。

東チモール知事職だった自身の2000年3月12日から2001年5月14日までを記録したもの。2001年10月に藤原書店から出版された。

伊勢崎は3つの国連平和維持ミッションにかかわった[注 1]が、東チモール知事職はその最初で、時系列による単著としてまとめられた唯一のもの。

背景(東チモール略史)

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この著作の「序」による。

知事赴任前の著者

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  • 1988年 30歳で国際NGO、プラン・インターナショナルに就職。シエラレオネ、ケニア、エチオピアで現地所長。
  • 1997年 伊勢崎はアフリカから帰国。翌年笹川平和財団の主任研究員。
  • 1999年10月 外務省国連政策課から電話が来た。「ご存知のことと思いますが、国連安全保障理事会が今月中に東チモールのPKOのミッションを創設致します。ご興味はございませんか?」
  • 2000年3月 UNTAET民生官となり、東チモール国境のコバリマ県知事に任命された。

内容

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以下、年を記載しない月日は2000年。

県組織の構築運営

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  • 県政評議会を設立。県議会の代行組織の位置付け(5月1日)。
  • 県治安委員会を設立。2つの国連大隊、国連軍事監視団、文民警察の代表からなる(7月3日)。
  • 治安事態に対応する緊急対策会議を準備(7月31日、8月1日)。2001年4月3日に国境での発砲交戦で実動。

国連軍の統括

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  • 2つの国連大隊を知事が文民統括。ニュージーランド歩兵大隊900名、パキスタン工兵大隊600名(3月22日、4月14日)。
  • 7月24日にニュージーランド大隊の兵士、8月11日にネパール中隊の兵士、計2名が、潜伏するインドネシア併合派民兵と戦闘して死亡。
  • インドネシア併合派民兵に対する武器の使用基準を変更。自己防衛のためには口頭警告なしで発砲可(10月25日)。[注 2]
  • スアイ市内の騒動。アイルランド中隊が民間人に銃を向けた(2001年4月26日)。

インドネシア軍との円卓会議

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  • 2週間ごとに国境で、西チモールを守備するインドネシア軍と円卓会議。ちょっとした誤解・衝突を処理する(4月1日)。目的は信頼醸成だと、西部国連軍を統括するルイス准将[注 3]に教わった。

西チモール在住難民の帰還手続き

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  • 1999年の東チモール住民投票前後に、併合派民兵による混乱で、20万人超(東チモール人口の3分の1弱)の東チモール人が、西チモールに避難または強制移住していた。東チモールとして民主国家を作るには、彼らが帰還の上で選挙されるべき(3月20日、7月23日)。
  • 2000年9月、インドネシア併合派民兵が、西チモールの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を攻撃、職員3人を惨殺。国連職員は全員西チモールを撤退(9月6日)。以後国連は、難民帰還に関与できず。

治安、暴動への対応

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  • 伊勢崎の休暇中に、ベコ村でCPD-RDTLという政党に対しチモール抵抗民族評議会(CNRT)が暴力。国連軍と文民警察が出動する事態に(6月29日)。

司法の未整備

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  • 重罪人の併合派民兵を首都に送っても、UNTAET本部の司法整備ができていないため、証拠不十分で釈放されてしまう(11月12日)。[注 4]
  • 併合派民兵の大物、メンドンサの扱い。やはり首都で釈放されてしまった。対策を検討(2001年3月22日、4月27日)。

東チモール国軍の必要性

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  • 伊勢崎は東チモールに軍隊は必要ないと意見(12月10日、15日、2001年3月4日)。

UNTAET本部への批判

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  • UNTAET本部を通じ、世界銀行が介入を計画。それは現地の実情に合わないとやりあう(5月25日、7月18日)。
  • 8月インドネシアがルピア紙幣を一部廃止。UNTAETも東チモール内の該当紙幣の廃止を発表。これではパニックを誘発するから、紙幣交換の制度を作るべきと意見(8月21日)。

労働争議の調停、職員の規律確保

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  • NGOが運営する県立病院で東チモール人がストライキ。その調停(4月9日)。
  • 5月にボランティア教師から公務員教師への選抜試験を施行。この採点に不正があったのではないか、という疑惑(8月28日)。アリピオが主導して調査(10月21日)。
  • パキスタン兵の地元女性へのセクハラ事件(5月4日、11月24日。翌年4月23日に処分決定)。

東チモール人への権限委譲

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  • 副知事に東チモール人アリピオが赴任(10月18日)。
  • アリピオを県知事代理、ガンビア人農業専門家サナを国連アドバイザーに任命し、任地を去る(2001年6月14日)。

伊勢崎離任後の東チモール

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この著作にはないできごとを簡単に記す。

  • 2001年1月 東チモール民族解放戦線兵士を主体に、東チモール国軍を再編。
  • 2001年8月 議会選挙
  • 2002年3月 憲法制定 4月大統領選挙
  • 2002年5月 UNTAETから全権限を移譲され、東チモールは完全独立。
  • 2002年3月~2004年6月 日本の自衛隊がPKOとして派遣された。[注 5]
  • 2006年4月 国軍離脱者による抗議行動が、武力衝突に発展し混乱。[注 6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 他の2つはシオラレオネの武装解除(2001-2002年)と、アフガニスタンの武装解除(2003-2005年)。
  2. ^ 「僕はニュージーランド軍司令官の要請を許可して、部隊の武器使用基準を緩めてしまったのです。」と、彼が許可したことを認めている。(『本当の戦争の話をしよう』 [1]p.91)
  3. ^ 「彼は僕よりずっと年上だが、文民統治される側の長として、人前、特に東チモール人の前では、わざと僕を引き立ててくれるところがあった。」(『自衛隊の国際貢献は憲法9条で』[2]p.28)
  4. ^ 『本当の戦争の話をしよう』[1]p.192には、留置場を作る金もないため、容疑者を釈放せざるをえなかった、その経過と影響をわかりやすく書いている。
  5. ^ 治安も回復したこの時期になぜ?と伊勢崎は疑問視し、小泉首相に意見した。(『本当の戦争の話をしよう』[1]p.227)
  6. ^ 『本当の戦争の話をしよう』[1]p.280に伊勢崎が内情を解説。

出典

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  1. ^ a b c d 伊勢崎賢治 『本当の戦争の話をしよう』 朝日出版社 2015
  2. ^ 伊勢崎賢治 『自衛隊の国際貢献は憲法9条で』 かもがわ出版 2008

外部リンク

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