村澤高包
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村澤 高包(むらさわ たかかね、1749年(寛延2年) - 1837年(天保8年)11月8日)は、江戸時代後期の篤志家、和算家。通称は文右衛門(久右衛門とも)。
生涯
[編集]信濃国更級郡今里村の和算家、篤志家・村澤布高の長男として生まれる。村澤家は豪農で、江戸時代初期には今里に在ったという。幼い頃から祖先と父・布高を手本として質素倹約に励み、貯蓄を始めた。それは凶作に苦しむ農民を救う為であった。また、貧しさに苦しむ人々を助ける為に医学を修め、医薬を貯蔵し、報酬を求めず治療に当たり、布高から数学を学んで門人となり、小県郡別所観音への算額奉納などもしている。
1783年(天明3年)、天明の大飢饉で村人が租税困難となった際、蔵の米で村の公租を代納しつつ、困窮に喘ぐ人々に蓄えてあった銭を与える救貧活動を行った。1789年(寛政元年)に祖父が亡くなると、凶作に備えるべく、金百両、米百石をお上に寄付して祖父の遺志を果たした。高井郡小沼村では、1804年(文化元年)より洪水被害に苦しんでおり、それを救う為、紐に通した銭三万貫を出し、そして1808年(文化5年)には、凶作で宿駅の負担に喘ぐ水内郡牟礼村に金500両を出した。
1808年(文化5年)、長年に渡る慈善活動の数々と、藩政への貢献によって苗字帯刀を許され、郡名である更級を名乗る事を許された。
1810年(文化7年)に隠居。晩年は快徹(徹翁とも)と号し、医術と薬剤によって人々を救い続けつつ、近隣郷の子弟達の算術の先生となった。
1837年(天保8年)没。
参考文献
[編集]- 長野県更級郡役所『更級郡誌』(明治文献、1973)
- 信濃教育会更級部会、信濃教育会埴科部会編『更級郡埴科郡人名辞書』(象山社、1978)
- 平凡社『日本人名大辞典 6』(平凡社、1938初版、1979覆刻)
- 赤羽篤外編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。