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村山藤子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村山於藤から転送)

村山 藤子(むらやま ふじこ、本名:村山於藤、むらやま おふじ、1897年4月29日 - 1989年3月20日)は、日本実業家朝日新聞社の社主家として大きな影響力をもち[1]香雪美術館理事長、ロイヤルホテル相談役、大阪国際フェスティバル協会常務理事などを歴任した[1][2]

来歴

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朝日新聞』の創業者である村山龍平の一人娘として大阪に生まれ、学校には通わず、京都大学教授らを家庭教師に招いて教育された[1]

1919年、岡部長挙を婿養子に迎えて結婚(村山長挙[2]1933年に父・龍平が死去すると、夫・長挙が会長(後、1940年に社長)となった。やがて藤子は、社長夫人、大株主の社主家として影響力をもつようになっていった[2]

特に1963年以降のいわゆる村山事件など、朝日新聞社の経営陣としばしば対立した[1]。当時、平林たい子は、「村山藤子夫人論」という文章で、「新聞社内の民主化に一老女性がついて行けなかった」と評した[3]

この間、藤子は、朝日ビルディング社長(後、名誉会長)、香雪美術館理事長、ロイヤル・ホテル相談役などを歴任した[2][4]

また、大阪国際フェスティバル協会常務理事として、クラシック音楽の普及にも関わった[2][4]。茶道への造詣も深く、藪内流家元藪内紹智などとも親交があった[4]

脚注

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  1. ^ a b c d 20世紀日本人名事典『村山 於藤』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『村山藤子』 - コトバンク
  3. ^ 藤原惠朝日新聞社事件」『関西学院大学社会学部紀要』第14号、1967年、65頁。 
  4. ^ a b c “本社前社主故長挙氏夫人、村山藤子さん死去”. 朝日新聞・夕刊: p. 19. (1989年3月20日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧