李道玄
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李 道玄(り どうげん、仁寿4年(604年) - 武徳5年10月25日[1](622年12月3日))は、中国の唐の宗室。唐の高祖李淵の従兄の河南王李贄(李虎の五男の雍王李絵の子)の子。
経歴
[編集]武徳元年(618年)、唐が建国されると、淮陽王に封ぜられた。15歳にして、秦王李世民に従って介州で宋金剛を攻撃し、その先頭に立った。王世充に対する征戦にも従い、多くの戦功を挙げた。武徳4年(621年)、竇建徳が虎牢に駐屯すると、李世民は軽騎で竇建徳の軍を挑発し、李道玄は道の左に伏兵を布いて敵の前進を待ち、敵軍の側背を襲って破った。汜水に転戦して、南坂を登り、敵陣に突入してその背後に回り、また引き返すと敵は総くずれとなり、李世民を喜ばせた。敵と戦うたびに、身に矢を受けたが、戦意はますます旺盛であったといわれる。洛陽が平定されると、洛州総管となった。府が廃止されると、洛州刺史となった。
武徳5年(622年)、山東道行軍総管となって劉黒闥と戦った。6月、劉黒闥が突厥の支援をえて再び乱を起こすと、李道玄は史万宝を率いて下博で戦ったが、史万宝と協調できず敵中に深入りして戦没した。19歳であった。左驍衛大将軍の位を追贈され、諡を壮といった。
子がなく、弟の李道明が王位を継いで、左驍衛大将軍となった。
伝記資料
[編集]脚注
[編集]- ^ 『旧唐書』巻1, 高祖紀 武徳五年十月癸酉条による。