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李章寧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 章寧(イ・ジャンニョン、朝鮮語: 이장녕1881年旧暦5月20日 - 1932年陽暦1月24日)は韓国の独立活動家。

李 長栄とも言って、雅名は白于、本貫は延安李氏[1]

生涯

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忠清南道天安出身。大韓民国臨時政府主席を勤めた李東寧は又従兄弟になる。

1902年大韓帝国陸軍武官学校朝鮮語版3期卒業、1903年3月25日に陸軍参尉任官。同年、副尉として服務した[2]。1907年に大日本帝国が軍隊を解散して旧大韓帝国の軍人は皇室の親衛隊に編入されると、1907年11月20日に中国へ亡命、奉天省柳河縣三源堡へとたどり着いた[3]李相竜李会栄兄弟、金東三、李東寧などが後に従って亡命し、彼らとともに新興講習所朝鮮語版を設立して教官を務めながら武装独立活動家を養成した。

1919年に三・一運動以後徐一羅仲昭朝鮮語版李範奭金佐鎮らとともに大韓正義団を設立、軍政部参謀長を引き受ける。この機関が8月7日に大韓軍政府、12月に北路軍政署朝鮮語版に拡大改編された時も参謀長を務めた。青山里戦闘で勝利をおさめた北路軍政署は1920年に大韓独立軍など他の独立軍と連合して大韓独立軍団を組織したが、この時参謀総長に任命された。

大韓独立軍団はロシア領内に移動したが、1921年に自由市惨変で独立活動家が多数死亡し、徐一が自決する事件が発生する。また中国に帰って来て独立運動団体統合のために吉林全満統一会議準備会会長を引き受けて臣民府を組織した。1930年に金佐鎮暗殺以後洪震韓国独立党監察委員長に任命され、党軍韓国独立軍も組織した。

1932年に日本の指示を受けたと推定される中国人馬賊団に家族ともろとも殺害された[4]

1963年に建国勲章独立章を受勲した。息子李義復も建国勲章を授与された独立活動家である[5]

参考サイト

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注釈

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  1. ^ 이장녕 - 네이버
  2. ^ 李章寧” (朝鮮語). デジタル天安文化大全. 2017年10月7日閲覧。
  3. ^ 李章寧” (朝鮮語). 民族文化大百科事典. 2017年10月7日閲覧。
  4. ^ 대한민국 국가보훈처, 이 달의 독립 운동가 상세자료 - 이장녕, 1993년. "1932년 1월 24일 선생은 일제의 사주를 받은 중국 마적에게 가족과 함께 피살됨으로써 그 거룩한 뜻, 조국독립을 보지 못하고 이역에서 생애를 마치게 되었다."
  5. ^ 愛国志士 李義復” (朝鮮語). 国立大田顕忠院. 2017年10月7日閲覧。