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李秉禧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 秉禧(イ・ビョンヒ、朝鮮語: 이병희/李秉禧1926年8月1日 - 1997年1月13日)は、大韓民国政治家陸軍軍人。第6・7・8・9・10・13・15代韓国国会議員。本貫星州李氏[1][2]

経歴

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日本統治時代の京畿道龍仁郡(現・龍仁市)出身。1949年に陸軍士官学校(第8期)卒、陸軍少尉に任官。1958年に慶熙大学校法政大学政外科卒。漢陽大学校大学院政治科を経て、1983年に慶熙大学校大学院で政治学博士学位を取得した[1][2]

陸軍特務隊で勤務した後、1961年の5・16軍事クーデターに参加した。1962年に中央情報部ソウル支部長を経て、陸軍大領として予備役に編入し、金鍾泌と知り合ったことで民主共和党の成立に参加した[2]。1963年の第6代総選挙水原選挙区から民主共和党の公認で立候補して初当選し、その後国会議員を計7期務めた[1][2]。政務担当第1無任所長官を1971年〜1975年に務めたほか、1963年〜1966年に民主共和党青年分科委員長と院内副総務、1969年に国会運営委員長、1971年〜1980年に民主共和党党務委員と政策委員会副議長、1976年に民主共和党中央委議長、1979年〜1980年に同党副議長、1971年〜1980年に韓日議員連盟幹事長、1964年からアジア自由青年連盟理事長を歴任した[2]

1980年に新軍部の執権により政治活動が禁止されたが、1984年に解禁され、1987年に金鍾泌の新民主共和党に参加し、首席副総裁と京畿支部委員長を務め、1988年の第13代総選挙で6選した。1990年の三党合同で民主自由党に参加し、1992年〜1994年に京畿道水原長安地区党委員長、党務委員、常務委員会議長、総裁常任顧問などを務めた。1995年に金鍾泌の離党とともに自由民主連合に参加し、総裁常任顧問、水原長安地区党委員長、京畿道支部委員長を歴任した[2]。1996年の第15代総選挙で7選したが[2]、同年11月に膵臓癌の診断を受け、治療していたが病状が悪化し転院し、1997年1月に胃癌により71歳で死去した[3][4]

韓国のバスケットボールの発展にも寄与した。1964年〜1980年に大韓バスケットボール協会会長を務めたほか、1965年にアジアバスケットボール連盟副会長、1967年に大韓体育会副会長兼大韓オリンピック委員会(KOC)常任委員、1971年にアジアバスケットボール連盟会長兼国際バスケットボール連盟副会長を歴任した[2]

脚注

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  1. ^ a b c 대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年2月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 이병희(李秉禧)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年2月15日閲覧。
  3. ^ 이병희 의원 별세” (朝鮮語). 서울신문 (1997年1月14日). 2023年2月15日閲覧。
  4. ^ 자민련 李秉禧(이병희)의원”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1997年1月14日). 2023年2月15日閲覧。