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李相和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李相和
各種表記
ハングル 이상화
漢字 李相和
発音: イ・サンファ
日本語読み: りそうわ
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李 相和(イ・サンファ、朝鮮語: 이상화1901年4月5日 - 1943年4月25日)は朝鮮詩人

本貫慶州李氏[1]無量(ムリャン、무량)、想華または尚火(サンファ、상화)、白唖(ペガ、백아/白啞[2]

兄は独立運動家で、大韓民国臨時政府において軍務部長秘書室補佐官を務めた李相定。弟はバスケットボール選手で社会学者の李相佰と作家の李相旿

略歴

[編集]

慶尚北道大邱市西門路生まれ。幼い頃に父を亡くしてからは、伯父の世話で私塾に通い、読み書きや漢文を修めた。14歳のとき、上京し、中央学校の中等課程に入り、修了した他後、故郷に戻った。1918年の夏、李は旅に出る。金剛山から江原道一帯をさすらい、家に戻ったのは6ヶ月後であった。この旅は李にとって、生きる意味、人生を考える旅であったらしい。「我が寝室へ (나의 침실로)」(1923)はこの放浪の旅の中で完成させたものと述べている。

1919年3月1日、李が18になる年に三・一運動が起こる。李はこの運動に呼応し、白基萬と共に同月8日、大邱で独立運動を起こした。その後、朝鮮総督府の検挙を逃れてソウルに隠れ、同郷の友人である、延禧専門学校に通う声楽家朴泰元のところに身を寄せる。この頃から、祖国の運命に悲観し、酒に酔うようになった。

1919年陰暦10月、人に勧められるまま、公州の名門である徐漢輔の娘、徐順愛と結婚する。実は李には密かに思いを寄せていた女性がいた。慶尚南道出身の孫畢蓮という女性で、独立運動の同士でもあり、李はこの女性とかなり親しい関係であったという。

1923年、渡日し、東京アテネ・フランセに通う。李は東京に留学することが目的ではなく、フランスへ行く足がかりにするためであった。朝鮮総督府から要視察人物とされていたため、ソウルからフランスへ行くことはできなかった。アテネ・フランセでフランス語を学びながら機会をうかがっていたが、その年の9月に関東大震災が発生し、東京に住む朝鮮人が大迫害を受け、李も留学どころではなくなってしまう。翌年1924年春に帰国することになった。東京にいた頃、柳宝華という女性と恋人の仲になったという。柳宝華は後の1926年肺病にかかり、李の膝に顔を伏せて死んだ。

ソウルに戻った李は、嘉会洞の翠雲亭に住み、詩作に没頭した。「金剛 頌天」「逆天」「別離」などはこの頃の作品である。また、この頃、李は相当の酒豪であったと言われる。1925年KAPFの設立に参加する。1927年、故郷の大邱に戻る。李は常に官憲に監視され、やがてそうした圧力が李の精神を壊し、酒と女に溺れ堕落していく。1934年まで、1篇の詩も発表されなかった。

1935年中国に渡り、独立運動を起こしている兄の相定に会った。そのまま、1年ほど中国を遊覧し、1936年に帰国した。帰国した李を、朝鮮総督府はスパイ容疑で逮捕、20余日にわたり拷問した。この拷問で李の身体は極度に衰弱し、その後、回復することもなかった。

1936年から40年まで、嶠南学校で教育や文化活動に取り組む。1940年からは再び筆を執り、『春香伝』の英訳や『国文学史』、『フランス詩』などの評訳を出す予定をしていた。しかし、それらを完成させることもなく1943年、衰弱しきった李は床に伏せ、陰暦3月21日朝8時、夫人の傍で息を引き取った。李の遺骸は慶尚北道達城郡花園面別里1区の月城李氏の墓地に埋葬された。1943年、白基萬徐東辰など同郷の友人らの提議で、朝鮮総督府の目を避けるため「詩人白唖李公諱相和之墓」とだけ刻まれた墓碑が建った。戦後、金素雲の提唱で大邱市の達城公園に「尚火詩碑」が建てられた。

作品

[編集]

· 빼앗긴 들에도 봄은 오는가? (奪われた野にも春は来るのか)


지금은 남의 땅― 빼앗긴 들에도 봄은 오는가? (今は他人の土地- 奪われた野にも春は来るのか) 나는 온몸에 햇살을 받고 (私は全身に日の光を浴びて) 푸른 하늘 푸른 들이 맞붙은 곳으로 (青い空、緑の原野が付いているとこへ) 가르마 같은 논길을 따라 꿈 속을 가듯 걸어만 간다. (分け目のような田圃道に沿って夢の中を行くように歩いていく 。)

입술을 다문 하늘아, 들아, (口をつぐんでいる空よ、 野原よ 、) 내 맘에는 내 혼자 온 것 같지를 않구나! (私の心には私一人で来たようではないね!) 네가 끌었느냐, 누가 부르더냐. 답답워라, 말을 해 다오. (君が集めたのか 、 誰が歌っていたか 。 息苦しく、話をしてくれて。)

바람은 내 귀에 속삭이며 (風は、自分の耳にささやきながら) 한 자욱도 섰지 마라, 옷자락을 흔들고. (一ジャウクも立ったな、裾を振って。) 종다리는 울타리 너머 아씨같이 구름 뒤에서 반갑다 웃네. (ヒバリは垣根越しアシのように雲の後ろで嬉しいと笑う。) 고맙게 잘 자란 보리밭아, (ありがたくよく育った麦畑、) 간밤 자정이 넘어 내리던 고운 비로 (夜に自浄を超え、降っていたきれいな雨で) 너는 삼단 같은 머리털을 감았구나, 내 머리조차 가뿐하다. (君は緑の黒髪の毛を閉じたよ、 私の頭さえ軽い。) 혼자라도 가쁘게나 가자. (一人でも苦しそうに行こう。) 마른 논을 안고 도는 착한 도랑이 (乾いた田んぼを抱えている善良な溝が) 젖먹이 달래는 노래를 하고, 제 혼자 어깨춤만 추고 가네. (赤ん坊をあやす歌を歌って、 自分一人で肩ダンスばかり踊ってしまうのね。) 나비 제비야 깝치지 마라. (蝶,燕だカプチな。) 맨드라미 들마꽃에도 인사를 해야지. (ケイトウ、野花にも挨拶をしなければならない。) 아주까리 기름을 바른 이가 지심 매던 그 들이라 다 보고 싶다. (ヒマシ油を塗った人がジシムメたその野原なので全部見たい。)

내 손에 호미를 쥐어 다오. (私の手にくわを握ってくれ。) 살진 젖가슴과 같은 부드러운 이 흙을 (太った乳房のような柔らかいこの土を) 발목이 시도록 밟아도 보고, 좋은 땀조차 흘리고 싶다. (足首がすっぱくなるほど踏んでも報告、 良い汗を流したい。)

강가에 나온 아이와 같이, (川辺に出た子供と一緒に、) 짬도 모르고 끝도 없이 닫는 내 혼아 (間も知らずに最後もなしに追い込まれる私の魂よ) 무엇을 찾느냐, 어디로 가느냐, 웃어웁다, 답을 하려무나. (何を捜すか、 どこに行くのか、 おかしい、 答えをしなさい。)

나는 온몸에 풋내를 띠고, (私は全身にプッネを帯びて、) 푸른 웃음 푸른 설움이 어우러진 사이로 (青い笑い、青い悲しさが調和しな仲に) 다리를 절며 하루를 걷는다. 아마도 봄 신령이 지폈나 보다. (足を引きずって一日を歩く。 おそらく春神霊がつけたようだ。)

그러나, 지금은― 들을 빼앗겨 봄조차 빼앗기겠네. (しかし、今は- 野原を奪われ、春さえ奪われね。)

年譜

[編集]
  • 1901年4月5日、慶尚北道大邱市西門路に生まれる。
  • 1915年、ソウル中央学校に入学。桂洞32番地の銭鎮漢宅に下宿。
  • 1918年、中央学校を修了し帰郷。金剛山など江原道一帯を旅する。
  • 1919年、三・一運動に参加。検挙を逃れてソウルに隠れる。西大門区冷洞92番地、声楽家朴泰元のところに下宿。
  • 1919年陰暦10月、公州徐漢輔の娘、順愛と結婚。
  • 1922年、『白潮』の同人になる。同誌創刊号に「末世の唏嘆」という詩を載せて文壇にデビューする。
  • 1923年、渡日。東京のアテネ・フランセに通いフランス語を修める。
  • 1924年、帰国。ソウル、嘉会洞の翠雲亭に住み、白潮派の人達と交遊を深める。
  • 1926年、傾向派に同調し始める。
  • 1926年、長男、龍熙が生まれる。
  • 1927年、帰郷。
  • 1934年、朝鮮日報の慶北総局を経営。
  • 1934年、次男、忠熙が生まれる。
  • 1935年、中国に渡り、兄の相定に会う。
  • 1936年、帰国。スパイ容疑で朝鮮総督府に拘束され。
  • 1936年、嶠南学校の講師を勤める(~1940)
  • 1940年、『春香伝』を英訳(未完)。
  • 1943年4月25日午前8時、自宅にて死去。

脚注

[編集]
  1. ^ (6)경주 이씨(慶州李氏)-1,424,866명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月6日). 2022年8月16日閲覧。
  2. ^ 이상화(李相和)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年11月30日閲覧。