李根模
李根模 리근모 | |
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生年月日 | 1926年4月5日 |
出生地 | 大日本帝国、平安南道 |
没年月日 | 2012年ごろ[1] |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
第5代政務院総理 | |
内閣 | 李根模内閣 |
在任期間 | 1986年12月29日 - 1988年12月12日 |
国家主席 | 金日成 |
内閣 | 李鐘玉内閣 |
在任期間 | 1981年3月 - 1981年9月 |
国家主席 | 金日成 |
内閣 |
金一内閣 朴成哲内閣 |
在任期間 | 1973年9月20日 - 1977年12月15日 |
国家主席 | 金日成 |
李根模 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 리근모 |
漢字: | 李根模 |
発音: | リ・グンモ |
日本語読み: | り・こんも |
ローマ字: | Ri Kŭnmo |
英語表記: | Li Gun-mo |
李 根模(リ・グンモ、1926年4月5日[2] - 2010年代[1])は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。第5代政務院総理(首相)などの要職を歴任した。
経歴
[編集]金日成総合大学に学び、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の機械技術研究所に留学して機械工学の学位を修得する。帰国後、朝鮮労働党中央委員会の職員として勤務する。
1967年より最高人民会議代議員となり、同年11月、党中央委員会文化宣伝部長に就任。1968年7月、第二機械工業相(大臣)に就任。1970年11月、党中央委員に選出され、翌年には党中央委員会機械工業部長に就任。1971年5月24日、第二機械工業相を解任[3]。翌1972年、平安南道党委員会責任書記に転出。1973年9月20日、政務院副総理(副首相)に就任する[4]。1977年12月15日、政務院副総理を退任。1980年10月の第6回党大会で政治局員候補となる[5]。1981年3月、政務院副総理に再び任命されるが、同年9月には南浦市党委責任書記に転出。
1986年2月、党書記局書記に任命される。12月29日、政務院総理に就任。総理就任にともない、党政治局員に補選される一方、書記を退任している(12月27日の第6期党中央委員会第12回総会で決定)。約2年間総理の職を務めたが、1988年11月末に「健康上の理由」により職務遂行が困難となる。同年12月11日、急遽第6期党中央委員会第15回総会が開催され、総理辞任問題が審議されるとともに、党政治局員を罷免。翌12月12日、最高人民会議第8期第4回会議が招集され、政務院総理を辞任した[6]。
総理辞職後は、1993年1月7日に咸鏡北道人民委員会委員長への就任が判明[7]。同年4月9日、最高人民会議第9期第5回会議で中央人民委員会委員に選出された[7]。後に咸鏡北道党委責任書記を務める。
脚注
[編集]- ^ a b [1]
- ^ KBS WORLD Radio Webサイトより。
- ^ 『アジア動向年報 1972年版』, p. 89.
- ^ 『アジア動向年報 1974年版』, p. 85.
- ^ 『アジア動向年報 1972年版』, p. 86.
- ^ 玉城 1989, p. 74.
- ^ a b 中川 1994, p. 41
参考文献
[編集]- 『1971年の北朝鮮』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1972年版〉、1972e.go.jp/records/39406。doi:10.20561/00039401。hdl:2344/00001671 。「ZAD197200_004」
- 『積極的対外攻勢の年 : 1973年の北朝鮮』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1974年版〉、1974年、81-114頁。doi:10.20561/00039359。hdl:2344/00001712 。「ZAD197400_004」
- 「参考資料 朝鮮民主主義人民共和国 1980年」『アジア動向年報1981』アジア経済研究所、1981年
- 玉城素『緊張と動揺の明け暮れ : 1988年の朝鮮民主主義人民共和国』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1989年版〉、1989年、69-108頁。doi:10.20561/00038994。hdl:2344/00002074 。「ZAD198900_004」
- 中川雅彦『目標未達成で終了した第3次7カ年計画 : 1993年の朝鮮民主主義人民共和国』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1994年版〉、1994年、39-68頁。doi:10.20561/00038865。hdl:2344/00002202。ISBN 9784258010943 。「ZAD199400_004」
朝鮮民主主義人民共和国
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