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李公蘊

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李太祖から転送)
太祖 李公蘊
李朝
初代皇帝
リ・タイ・ト像(ハノイのリ・タイ・ト公園)
国号 大瞿越
王朝 李朝
在位期間 1009年 - 1028年
都城 昇龍
姓・諱 李公蘊
兆衍[1]
尊号 奉天至理応運自在聖明龍見睿文英武崇仁広孝天下太平欽明光宅章昭万邦顕応符感威震藩蛮睿謀神功聖治則天道政皇帝
諡号 神武皇帝
廟号 太祖
生年 太平5年2月12日
974年3月8日
没年 順天19年3月3日
1028年3月31日
顕慶王
明徳太后
后妃 貞明皇后
佐国皇后
立元皇后
立教皇后
陵墓 寿陵
元号 順天 : 1010年 - 1028年
キエンソー寺の李太祖像(ザーラム県

李 公蘊(リ・コン・ウアン[2]ベトナム語Lý Công Uẩn / 李公蘊)は、李朝大瞿越中国語版の初代皇帝。廟号太祖(タイ・ト[2]ベトナム語Thái Tổ / 太祖)、号は神武皇帝ベトナム語Thần Vũ Hoàng Đế / 神武皇帝)、尊号奉天至理応運自在聖明龍見睿文英武崇仁広孝天下太平欽明光宅章昭万邦顕応符感威震藩蛮睿謀神功聖治則天道政皇帝ベトナム語Phụng Thiên Chí Lý Ứng Vận Tự Tại Thánh Minh Long Hiện Duệ Văn Anh Vũ Sùng Nhân Quảng Hiếu Thiên Hạ Thái Bình Khâm Minh Quảng Trạch Chương Chiêu Vạn Bang Hiển Ứng Phù Cảm Uy Chấn Phiên Man Duệ Mưu Thần Trợ Thánh Trị Tắc Thiên Đạo Chính Hoàng Đế / 奉天至理應運自在聖明龍見睿文英武崇仁廣孝天下太平欽明光宅章昭萬邦顯應符感威震藩蠻睿謀神功聖治則天道政皇帝[3][4]

生涯

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来歴の謎

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大越史記全書』などの史書によれば、北江古法州亭榜村(現在のバクニン省トゥーソン市ディンバン坊ベトナム語版)の出身で、現在のディンバン坊には李氏の墳墓と家祠が残されている。ただし、史書に李公蘊の出生時の詳しい状況を明確に記したものはない。『大越史記全書』には李公蘊が即位した折、亡父に顕慶王中国語版の追号をした[5]との記録がわずかにあるが、実父に関するそれ以上の記載はない[5]。母の家系についても、母は范氏という名の女性だった[5][6]という事実を除いてほとんど知られていない。

ベトナムの民間伝承によれば、李公蘊には父親がなく、母の范氏が蕉山に遊んだ折、夢の中で神と交わり、その後に李公蘊を産んだという。3歳の時、母は李公蘊を古法寺の法師である李慶文の養子とした[6][7]

李公蘊は泉州閩南民系であるという[8][9][10][11][12]沈括が著した『夢渓筆談』の記載によれば、李公蘊は閩人とされている[注 1]。泉州晋江県安海鎮中国語版で発見された『李荘𤆬内李氏房譜』による李氏の家系に関する記載によれば、李公蘊は李淳安[1]の次男で、幼少時に父に従って泉州を離れ、安南に移住した。ただ長兄の李公澡のみは安海に残り、その地の李氏の始祖となった[1]

華僑大学中国語版華人研究所教授の李天錫は、『宋史』と『元史』の記述を考証した上で、李公蘊と後の陳朝初代皇帝陳煚は泉州安海の閩南民系であるとする[1][9]。この他、ある学者は李公蘊は太宗の十四男の曹王李明の末裔との説を立てている[12]。少なくとも李公蘊の父の家系が中国の民族的な背景を持っていたことは、ベトナムの歴史家チャン・クオック・ヴオンによって受け入れられている[13]

前黎朝への出仕

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李公蘊は聡明にして学問を好み、その器は気宇壮大であった。幼い頃から六祖寺に学んだが、僧の万行中国語版は李公蘊の非凡ぶりを見抜き、いずれ名君として立つ者と予感した[4][6]

李公蘊は長じるに及んで経済や歴史を学び、やがて当時安南を支配していた前黎朝に出仕し、殿前軍として仕える[14]。李公蘊は大行皇帝黎桓の娘の黎氏仏銀中国語版を娶り[15]黎姓を賜った[注 2]

大行皇帝の没後、中宗黎龍鉞が即位するものの、ほどなくして弟の黎龍鋌に殺害され、皇位は簒奪された。群臣が皆恐れて四散逃亡する中、ただ李公蘊のみは中宗の遺体を抱いて慟哭していた。その忠義ぶりに感心した黎龍鋌によって、四廂軍副指揮使、さらに左親衛殿前指揮使に任じられた[14]

を患っていた黎龍鋌は臥したままで政務を執ったため、「臥朝皇帝」と綽名されたが、暴虐で過酷な統治に人心は離反した。そんな折、古法州延蘊郷(現在のトゥーソン市社タンホン坊ベトナム語版)にある木棉の木が裂け、その中から一行の詩ベトナム語版が現れた。

樹根杳杳 禾刀木落
十八子成 東阿入地 木異再生
震宮見日 兌宮隠星
六七年間 天下太平

僧の万行は、「十八子」とはすなわち「李」であり、黎氏が滅んで李氏による国が興るとの寓意が込められたものと解した。万行はその「李氏」こそ李公蘊であり、彼が英邁なる君主として即位すると推察した。臥朝皇帝に害されることを恐れた李公蘊は、万行の手引きで蕉山に隠れた。一方、詩の寓意を知った臥朝皇帝は李姓の大臣を誅殺するものの、帝からの信頼篤い李公蘊のみは免れることができた[5]

この事件の後、李公蘊は皇位簒奪の野心を抱くようになる[5]

李朝の創建

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景瑞2年(1009年)、臥朝皇帝は崩御した。皇太子の黎龍乍は10歳と幼く、臥朝皇帝の2人の弟の定藩王黎龍鏦ベトナム語版と行軍王黎龍鍉ベトナム語版は皇位をめぐって争った。時に左親衛殿前指揮使に任じられていた李公蘊と右殿前指揮使の阮低ベトナム語版はそれぞれ500の兵を率い、護衛の名目で宮中に侵入する。その折、祗候の陶甘沐中国語版は李公蘊に対して即位を勧めた。これを「陰謀」とみなした李公蘊は2人を逮捕するものの、最終的にその意を受ける。陶甘沐と万行の策略の元で、李公蘊は兵を率いて黎龍鏦と黎龍鍉を討って皇位を奪った。そして黎姓から李姓に復し、新たに李朝を興した[4]。翌年には元号順天とし、父に顕慶王と追号し、生母を明徳太后中国語版とした[5]

治績

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昇龍への遷都

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太祖は即位後まもなく、都を山間部の華閭(ホアルー)から紅河デルタ大羅城中国語版に遷した。『大越史記全書』によれば、太祖が船で大羅城に至った折、忽然として船の傍らに黄龍が現れた。群臣はこれを大いなる吉兆とみなし、太祖は大羅城を昇龍(タンロン)と改名した。この昇龍こそ、現在に続くベトナムの首都ハノイである。太祖は大規模な宮殿を築き、故郷の古法州を天徳府、北江を天徳江英語版、古都華閭を長安府中国語版と改名した。また天徳府に宗廟を築いた。これが李八帝廟中国語版である[3]

内政改革

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前黎朝の軍事統治は暴虐で刑法は苛烈であり、民衆の不満が鬱積していた。太祖は前黎朝で用いられた残酷な処刑具や拷問具を焼却処分し、民心を掴んだ[3]

順天4年(1013年)には田地・山野・塩田・象牙・香料など各産物に関する税制を定めた[7][16]

対外政策

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太祖は即位後に前黎朝の侵略的な対外政策を改め、外交には和平をもって当たった。臥朝皇帝によって俘虜にされた芒族を解放して故郷に帰した[3]

順天元年(1010年)、太祖は宋に冊封を求める使者を送った。時の真宗は太祖を交趾郡王・領静海軍節度使中国語版に封じた[3]。この後、太祖は幾度も宋に使者を送った。順天7年(1016年)、太祖は宋より南平王に封じられた[17]

軍事政策

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前黎朝の時代に大瞿越全土は10に分けられ、各道は兵を擁した部将に管理されていた。太祖は即位後に中華王朝の制度を模倣して全土を24中国語版に再編成し、路の下に英語版などの行政単位を設置した。それぞれの「路」の長には、中央から派遣された文官を任命した。また、朝廷に反抗的だった芒族の居住地である愛州驩州には「寨」を設置し、「内地」とは異なる軍事統治を布いた[4]。順天2年(1011年)、太祖は兵を率いて莒隆における芒族の乱を平定し、首領の首級を挙げ、村を焼き払う[3]などして、容赦のない姿勢で臨んだ。このとき、太祖は各地に封じた皇子たちに長期間従軍させた[7]

仏教政策

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太祖は仏僧に教育を受けた関係で、仏教を篤く信仰していた。その治世に仏教を奨励したことで、僧侶の社会的地位は高まった。太祖の即位に功のあった万行は国師として国政を掌握した。しかし仏教奨励の影響で、国政に参与しない僧までもが広大な封地を手にするようになった[4]

太祖が築いた都・昇龍の城外には多くの寺院が立ち並んだ[3]。官人は寺院に多額の布施を行い、大鐘を鋳造させた[3]。仏教の隆盛に伴い、自ら剃髪する者が増えたため、順天10年(1019年)に太祖は全土の民衆に詔して、正式な得度を定めた[17]。宋に遣わされた使節は、その都度大量の三蔵経をもって帰国した[4]

崩御

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順天19年(1028年)、太祖は昇龍の龍安殿で崩御した。群臣はこぞって皇太子であった開天王李仏瑪[16]の元を訪れて即位への準備を勧めた。このとき、李仏瑪の3人の弟[注 3]東征王中国語版[17]翊聖王ベトナム語版・武徳王はそれぞれ兵を率いて慶福門に潜み、李仏瑪を刺殺するべく機会を覗っていた。しかし祥符門から宮中に向かった李仏瑪は、幸運にも逃れることができた。後に企みを知った李仏瑪は黎奉暁中国語版に命じて武徳王を討ち、東征王と翊聖王を捕えさせた。こうして李仏瑪は即位を果たした(李太宗[19]。死後、太祖は寿陵に葬られた。

家族

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李八帝廟の李太祖像(左)と李太宗像
  • 生父:顕慶王 李淳安
  • 生母:明徳太后 范氏
  • 養父:李慶文[6]

皇后

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6人

子女

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6男13女

  • 男子
  1. 開天王 李仏瑪(皇太子、またの名を李徳政、貞明皇后の所生、第2代皇帝李太宗)
  2. 開国王 李菩中国語版[16]
  3. 東征王 李力中国語版
  4. 翊聖王ベトナム語版
  5. 武徳王
  6. 威明王 李晃中国語版(李日㫕、貞明皇后の所生[21]
  • 女子
  1. 安国公主(義信侯陶甘沐中国語版に嫁す[20]
    その他は名が伝わっていない。

後世の記念

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脚注

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注釈

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  1. ^
    桓死、安南大亂、久無酋長。其後國人共立閩人李公蘊為主。夢溪筆談 巻25
  2. ^ 李公蘊が黎姓を賜った経緯は中国史書にわずかにあるが、ベトナムの史書には記されていない。
    廣西轉運使何亮言:『交州黎至忠,苛虐不法,眾心離叛。其卒也,一子纔十歳,弟龍鍉、龍鏦用兵爭立,大校李公蘊率土人逐而殺之。公蘊年始二十六,至忠最所親任,常令以黎為姓,既而自領州事,稱安南靜海軍權留後。且移文言見率方物奉貢,請降制命。』上曰:『至忠不義而得,公蘊尤而效之,益可惡也。』即詔亮安撫邊民,察視機事以聞。先是,至忠遣使貢奉,猶在京師,上令以其状諭之,如欲行服亦聽,使人聞之,掩泣而已。(黎至忠卒,李公蘊殺其二弟,遂據交州。至忠未嘗被殺也。國史云公蘊遂圖至忠,又云至忠年纔二十六,皆誤,今但從實録、會要及稽古録。)続資治通鑑長編 卷七十三
  3. ^ 『大越史記全書』によれば、東征王・翊聖王・武徳王は反乱ベトナム語版の折に太宗の「兄弟」と記述されている。つまり李公蘊の子である[18]

出典

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  1. ^ a b c d “千年前泉州人李公蘊越南当皇帝 越南史上重要人物之一”. 東南早報中国語版. (2010年10月12日). オリジナルの2011年1月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110102224601/http://www.fjsen.com/d/2010-10/12/content_3755527.htm 
  2. ^ a b 小倉, pp. 72–73
  3. ^ a b c d e f g h 大越史記全書, pp. 208–209
  4. ^ a b c d e f 『越南通史』第四編第九章第一節
  5. ^ a b c d e f 大越史記全書, pp. 202–203
  6. ^ a b c d 大越史記全書, p. 207
  7. ^ a b c 『越南史略』第三巻第四章
  8. ^ Le Minh Khai(ハワイ大学マノア校のベトナム史学者Liam Kelley). “The Stranger Kings of the Lý and Trần Dynasties”. 2017年9月3日閲覧。
  9. ^ a b “両安海人曾是安南皇帝 有関専家考証李公蘊、陳日煚籍属晋江安海”. 東南早報中国語版. (2008年12月18日). オリジナルの2013年10月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131007015742/https://www.qzwb.com/gb/content/2008-12/18/content_2975986.htm 
  10. ^ “千年前泉州人李公蘊越南当皇帝 越南史上重要人物之一”. 東南早報中国語版. (2010年10月12日). オリジナルの2011年1月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110102052753/http://www.fjsen.com/d/2010-10/12/content_3755527_2.htm 
  11. ^ “千年前泉州人李公蘊越南当皇帝 越南史上重要人物之一”. 東南早報中国語版. (2010年10月12日). オリジナルの2011年1月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110102052758/http://www.fjsen.com/d/2010-10/12/content_3755527_3.htm 
  12. ^ a b Lynn Pan. The Encyclopedia of the Chinese Overseas. Harvard University Press. p. 228. ISBN 0674252101 
  13. ^ Cuong Tu Nguyen (1997). Thiền Uyển Tập Anh. University of Hawaii Press. p. 371. ISBN 978-0-8248-1948-4. https://books.google.com/books?id=12MEAAAAYAAJ 
  14. ^ a b 大越史記全書, p. 198
  15. ^ http://www.nomna.org/DVSKTT/dvsktt.php?IDcat=29
  16. ^ a b c 大越史記全書, p. 210-211
  17. ^ a b c d e f 大越史記全書, pp. 212–213
  18. ^ 大越史記全書, p. 216
  19. ^ 大越史記全書, pp. 216–217
  20. ^ a b 大越史記全書, p. 204
  21. ^ 粤甸幽霊集中国語版

参考資料

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外部リンク

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