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李元環

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 元環(り げんかん)あるいは李 元瓌(り げんかい)は、8世紀中頃から後半にかけての中国代の人物で、奈良時代の日本の貴族忌寸官位正五位上出雲員外

経歴

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より来日した時期ははっきりしていないが、後述する唐楽演奏のことから察すると、袁晋卿同様、天平6年(734年)に遣唐使多治比広成の帰国に同行したものと思われ[1]、翌年5月に唐楽や新羅楽を演奏し、槍を持って舞った唐人の1人だと推測される[2]

記録にはっきり現れるのは、天平勝宝2年(750年)2月、正六位下から従五位下を昇叙されたことである[3]。その後、天平宝字5年(761年)12月、忌寸を与えられる[4]。同7年(763年)、出雲のまま織部正に任命[5]。翌8年(764年)11月、益田縄手とともに従五位下に昇叙し、同時に出雲員外に任命される[6]

天平神護2年(766年)10月、前日の法華寺での舎利の会に天皇の御前で唐楽を演奏したことで従五位上を授けられる。この時、皇甫東朝・袁晋卿も同じく唐楽の演奏で昇叙されている[7]

宝亀2年(771年)11月、多治比長野とともに、正五位上に昇叙される[8]。以後の事績は不明である。

新撰姓氏録』「左京諸蕃」に、清宗宿禰は「唐人正五位下李元環之後也」とある。

なお、名前であるが、『続日本紀』では、「李元環」とも「李元瓌」ともあり、定説を見ていない。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』巻第十一、聖武天皇、天平6年11月20日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第十二、聖武天皇、天平7年5月5日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第十八、聖武天皇、天平勝宝2年2月16日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第二十三、廃帝、淳仁天皇、天平宝字5年12月16日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第二十四、廃帝、淳仁天皇、天平宝字7年正月9日条
  6. ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝、淳仁天皇、天平宝字8年11月5日条
  7. ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇、天平神護2年10月21日条
  8. ^ 『続日本紀』巻第三十一、光仁天皇、宝亀2年11月25日条

参考文献

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