杉溪言長
杉溪言長 すぎたに ときなが | |
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生年月日 | 1865年7月5日 |
出生地 |
日本 山城国京都 (現・京都府京都市) |
没年月日 | 1944年10月30日(79歳没) |
前職 | 神職 |
所属政党 |
(木曜会→) 清交会 |
称号 | 正三位 |
配偶者 | 杉溪茂子 |
子女 | 養子・杉溪由言 |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1925年7月9日 |
杉溪 言長(杉渓、すぎたに ときなが、1865年7月5日(慶応元年閏5月13日[1])- 1944年(昭和19年)10月30日[1][2])は、明治から大正期の神職、宮内官、政治家、日本画家(南画)、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・山科[1]、幼名は狟丸[3]。雅号は六橋[4]。
経歴
[編集]山城国京都で右近衛権中将・山科言縄の三男として生まれる[1][3][5][6]。慶応4年(1868年)興福寺妙徳院を相続し、同年、得度して住職に就任[1][3][5][7]。同年4月(1868年)復飾を命ぜられ[1][3][5]、春日社神勤・新神司となる[3][5]。明治2年3月(1869年4-5月)、堂上格に列した[1][3][5]。同年11月(12月)家号を杉溪に改名した[1][5][7]。1875年(明治8年)3月28日、華族に列し[3][5]、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][8]。
1882年(明治15年)1月、京都宮殿勤番となる[3][6][7]。その後、殿掌を務めた[3][7]。1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)7月9日まで5期在任した[2][7]。この間、木曜会で活躍し、同会が分裂して清交会が結成されると主幹を務めた[4]。
1929年(昭和4年)9月2日に隠居し[1][9]、同年10月1日、養嗣子・由言が男爵を襲爵した[10]。墓所は多磨霊園(21-1-29)
人物
[編集]京都で画を重春塘に、禅を荻野独園に、詩を神田香巌に学んだ[4]。その後、鎌倉円覚寺で今北洪川に入門し約3年間参禅した[4]。早川千吉郎らの勧めで上京し、東京専門学校政治科で学んだ[4]。さらに南画を大倉雨村に、詩を森槐南について研鑽した[4]。
栄典
[編集]著作
[編集]- 画、佐藤渾編『深柳堂画冊』佐藤渾、1917年。
- 『深柳堂懐古詩』杉溪言長、1936年。
- 『美人百態』杉溪言長、1939年。
- 『平安襍詩』杉溪言長、1941年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 霞会館 1996a, p. 770.
- ^ a b 衆議院 & 参議院 1990, p. 75.
- ^ a b c d e f g h i 杉謙二 2011, p. 736.
- ^ a b c d e f 坂本箕山 1920, p. 168–170.
- ^ a b c d e f g h 杉溪言長差出 1875.
- ^ a b 筒井住蓮 1911, p. 274.
- ^ a b c d e 人事興信所 1933, p. ス32.
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第822号、昭和4年9月24日。届出は9月11日。
- ^ 『官報』第829号、昭和4年10月3日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 霞会館 1996b, p. 793.
参考文献
[編集]- 杉溪言長差出『杉渓家譜』1875年。 - 東京大学史料編纂所所蔵。
- 筒井住蓮 編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 坂本箕山『現代名士人格と修養』帝国文学通信社、1920年。
- 人事興信所 編『人事興信録』(8版)人事興信所、1933年。
- 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《上巻》吉川弘文館、1996年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。
- 杉謙二 編『華族畫報』《下》吉川弘文館、2011年。 - 華族画報社大正2年刊の複製。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 杉溪家初代 1884年 - 1929年 |
次代 杉溪由言 |