杉民治
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文政11年1月15日(1828年2月9日) |
死没 | 明治43年(1910年)12月1日[1] |
改名 | 修道、民治 |
別名 | 梅太郎(通称)、伯教(字)、学圃(号) |
墓所 | 護国山団子岩(山口県萩市椿東) |
主君 | 毛利敬親、元徳 |
藩 | 長州藩藩士 |
父母 | 父:杉常道、母:滝 |
兄弟 | 民治、吉田松陰、芳子、寿、艶、美和子、敏三郎 |
子 | 豊子、 吉田小太郎、滝子、道子 |
杉 民治(すぎ みんじ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士、明治時代の政治家、教育家。
諱は修道。吉田松陰の兄として知られる。杉道助は次女滝子の子。長男吉田小太郎と長女豊子の夫玉木正誼は萩の乱で戦死。三女道子の養子に吉田庫三。
経歴
[編集]長州藩士・杉常道(百合之助)の長男として、長門国萩の松本村に生まれる。幼少期は弟・寅次郎(松陰)とともに父や叔父・玉木文之進に師事し、のち玉木の松下村塾や藩校・明倫館で学んだ。
嘉永6年(1853年)江戸湾警備のために相模国へ出張するが、翌安政元年(1854年)松陰の黒船密航未遂事件に関連して帰国し、郡奉行所勤務となった。しかし安政6年(1859年)安政の大獄で捕縛された松陰に連座して免職となった。
万延元年(1860年)杉家を相続して再び藩に出仕。文久3年(1863年)御蔵元役所本締役となる。慶応元年(1865年)東光寺組を結成し、手廻組として藩の革新派に加わった。同年、民政方御用掛、明治元年(1868年)当島宰判と浜崎宰判の民政主事助役を担当。その労を称して藩主の毛利敬親より「民治」の名を与えられた[1]。明治4年(1871年)の廃藩置県の後は山口県権典事となって、明治11年(1878年)まで旧長州藩領の治政に携わった。
明治13年(1880年)頃には松下村塾を再興。また修善女学校の校長となって子女教育にも邁進した。
杉家の旧蔵書35点は、萩市立図書館が所蔵している[2]。
登場する作品
[編集]参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 萩市立図書館 1995, p. 36
- ^ 萩市立図書館 1995, pp. 15–17, 36