杉本隆平
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すぎもと りゅうへい 杉本 隆平 | |
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プロフィール | |
最終学歴 | 慶應義塾大学法学部政治学科卒業 |
職歴 | 新日本放送→毎日放送(NJB→MBS)アナウンサー |
活動期間 | 1951年 - ? |
ジャンル | スポーツ |
出演番組・活動 | |
出演経歴 |
プロ野球中継 近鉄パールクイズ ほか |
備考 NJBアナウンサー1期生 日本の民間放送初のスポーツ実況担当アナウンサー |
杉本 隆平(すぎもと りゅうへい[1])は、日本のアナウンサー。新日本放送→毎日放送(NJB→MBS)[2]アナウンサー第1期生。
来歴・人物
[編集]慶應義塾大学法学部政治学科卒業。大学時代はラグビー部に所属していた[3]。1951年、9月の開局を控えていたラジオ局・NJBへ入社。開局2日目(1951年9月2日)には日本の民間放送初のスポーツ中継となったアマチュア野球中継(ハワイ・レッドソックス対早稲田大学戦。甲子園球場)で実況を担当した[3]。当初は、解説の中澤不二雄が一人で実況を兼ねていたが、苦情の電話が相次いだことから、4回表より杉本が実況を務め、中澤が要所でアドバイスをした[3]。これにより、実況と解説のやり取りによるスポーツ中継スタイルが定着した[3]。翌1952年1月には、日本の民放初の大相撲中継をラジオ東京(KR。のちのTBSラジオ)と共同制作するにあたり、杉本は実況の一人として担当[4]。その後も、スポーツ実況のほか、娯楽番組の司会を務めた。
出演番組
[編集]※特記ない限り、ラジオの番組。
- プロ野球中継
- 大相撲中継
- ボクシング中継
- ラグビー中継
- 全米オールスター・ゴルフ特集(テレビ。1959年10月13日・20日。1957年春のゲームからS・スニード対K・ミドルコフを取り上げたダイジェスト番組)※声の出演[12]
- 競馬中継[13]
- 近鉄パールクイズ(1953年8月 - 1955年10月。3代目司会者)
- アベック料理コンテスト(テレビ。初代司会者)
出演映画
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 外部リンク(Movie Walker)を参照。
- ^ 1951年9月1日にラジオ局として開局。1958年に社名変更。1959年3月1日よりラジオテレビ兼営局となる。
- ^ a b c d 『毎日放送50年史』P59
- ^ a b 『TBS50年史』資料編P191
- ^ a b c 『TBS50年史』資料編P191掲載のラジオ番組一覧表より、『大相撲春場所実況』番組情報を参照。
- ^ a b 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録された、ラジオ番組『大相撲春場所実況』のデータカードを参照。
- ^ 『TBSアナウンサーの動き』P3-4を参照。
- ^ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』より、ラジオ番組『世界フライ級選手権 マリノvs白井』のデータカードを参照。
- ^ 『毎日放送50年史』資料編より、『ラグビー実況』(サブタイトル:ケンブリッヂ対全関西学生)のデータを参照。
- ^ 1955年5月にNJB(のちにMBS)・朝日放送(ABC)・毎日新聞社・朝日新聞社の四社合弁で会社設立され、1956年12月1日に開局した近畿地方最初の民間テレビ放送局。略称:OTV。1959年1月までにMBSはOTVへの経営・出資から撤退したが、それまでの間、MBSのアナウンサーがOTVの番組へ出演することもあった。
- ^ 『朝日放送の50年 III 資料集』P173のテレビ番組一覧表より、『早稲田大学VS同志社大学「OTVスポーツファンシートラグビー中継」』の番組情報を参照。解説者として、永井肇とともに杉本の名が記されている。
- ^ 『毎日放送50年史』資料編より、『全米オールスター・ゴルフ特集』のデータを参照。
- ^ 参考:MBS競馬ヒストリー - MBSラジオ『サンデー競馬中継 みんなの競馬』公式サイト内
参考資料
[編集]- 毎日放送50年史(2001年9月、毎日放送50年史編纂委員会事務局編・毎日放送発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 資料編(CD-ROM)
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 資料編
- 付録のDVD-ROM『ハイブリッド検索編』(PC対応)
- 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書)全34ページ。
- ラジオ番組データベース
- 朝日放送の50年(2000年3月31日、朝日放送発行)…国立国会図書館の書誌情報
- III 資料集