杉山成武
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 宝永5年(1708年) |
別名 | 通称:八兵衛 |
主君 | 津軽信政 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 石田氏流津軽杉山家 |
父母 | 杉山吉煕 |
子 | 成胤 |
杉山 成武(すぎやま なるたけ)は、江戸時代前期から中期にかけての弘前藩士。
生涯
[編集]天和元年(1681年)、父・杉山吉煕より家督1000石を継ぐ。天和2年(1682年)馬廻組与力頭となり、元禄10年(1697年)に手廻組頭となる。元禄11年(1698年)には家老となる。
元禄15年12月(1703年1月)には元禄赤穂事件の直前、赤穂義士の襲撃があるであろうと予想し、津軽信政と信重(のちの信寿)に「吉良邸に駆けつけ義央と義周父子を守るべき」と説いた[1]。
討ち入りが起きると津軽政兕(黒石領主)と山鹿政実(山鹿素行の嫡男)が、真っ先に吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力している。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社
脚注
[編集]- ^ 『地方別日本の名族 一 東北編I』「津軽氏」(1989年 新人物往来社)