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朴斉家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パク・チェガ

朴 斉家
生誕 1750年11月5日
朝鮮国
死没 1816年7月6日
朝鮮国会寧市
職業 学者、詩人、画家
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朴斉家
各種表記
ハングル 박제가
漢字 朴齊家
発音: パク・チェガ
日本語読み: ぼく せいか
ローマ字 Pak Che-ga
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朴 斉家(パク・チェガ、ぼく せいか、ハングル: 박제가1750年11月5日 - 1815年7月6日)は、李氏朝鮮時代の実学者詩人画家は次修(チャス)。は楚亭または貞蕤。本貫密陽朴氏[1]李徳懋白東脩と共に、武芸図譜通志の編纂に参加した[2]

概要

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1768年朴趾源に師事する。1779年正祖奎章閣を設置すると検書官に抜擢された。また1778年以降、4度にわたり朝鮮燕行使に随行して中国へ行き、その際に農業牧畜城郭宮殿の製法に至るまで詳細に観取して、中国から学ぶことによる福利厚生を説いた『北学議』を著し[1]、正祖の求めに応じて見聞を「丙午所懐」にまとめて上程した。無為徒食の腐敗両班を批判し、士農工商の序列を改め、貿易と通商によって国家を豊かにさせる重商主義を主張したが、保守勢力の反対に遭い、受け入れられなかった。

中華に置き、女真朝鮮を「夷」と把握した[3]

朝鮮語廃止論者

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朝鮮語を捨て去り中国語を用いることを主張した。

漢語は文字の根本である。けだし中国ではことばが先にあって字が出来たので字を知らなくても意味が分かる。外国人が漢字を崇めて中国の本ばかりを喜んで読んでいてもどうしても隙間が生じてしまう。言葉が膜のようになって逃れられないのだ。わが国は中華に近いのだし、音声もほぼ同じなのだから、国中の人がこぞって本来のことばを捨ててしまうことだって決して無理な相談ではないはずだ。そうなって始めて野蛮人と言われなくなるだろう。

- 北学議[4][5]

脚注

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  1. ^ a b 世界大百科事典』【朴斉家】
  2. ^ 「『武藝圖譜通志』成。武藝諸譜所載, 棍棒、籐牌、狼筅、長槍、鎲鈀、雙手刀, 六技出於戚繼光《紀効新書》, 而宣廟朝命訓局郞韓嶠, 遍質東征將士, 撰譜刊行者也。英宗己巳, 莊獻世子代理庶政, 歳己卯, 命增入竹長鎗、旗鎗、鋭刀、倭劍、交戰月挾刀、雙劍、提督劍、本國劍、拳法、鞭棍十二技, 纂修圖解, 作爲新譜。上即阼初, 命增騎槍、馬上月刀、馬上雙劍、馬上鞭棍四技, 又以撃毬、馬上才附之, 凡二十四技, 命檢書官李德懋、朴齊家, 開局於壯勇營, 看詳編摩, 爲之疏解, 凡厥得失, 亦著論斷。仍命壯勇營哨官白東脩, 察試技藝, 董飭開雕。」『正祖 30巻14年4月29日 5回目 《무예도보통지》가 완성되다』(朝鮮王朝実録 影印本46冊132面)
  3. ^ 文純実「十八世紀朝鮮における対外意識の変化について-特に華夷観を中心に-」『駿台史学』第96巻、駿台史学会、1996年1月、83-116頁、ISSN 05625955NAID 120001970421  p.101 より
  4. ^ 李翼成訳注『朴斉家 北学議』乙酉出版社
  5. ^ 伊藤英人朝鮮半島における言語接触:中国圧への対処としての対抗中国化(研究ノート)」『語学研究所論集』第18号、東京外国語大学語学研究所、2013年3月、55-93頁、NAID 120005423090 

参考文献

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  • 「アジア人物史 第8巻」集英社 2022年