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朴吉淵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朴吉淵
박길연
生年月日 (1943-01-26) 1943年1月26日(81歳)
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮平安北道
出身校 国際関係大学
称号 金日成勲章

当選回数 3回
在任期間 1986年11月 - 1998年7月
2003年8月 - 2009年3月
最高指導者 金日成1948年 - 1994年
金正日(1994年 - 2011年

在任期間 1991年9月 - 1996年5月
2001年12月 - 2008年8月

朝鮮民主主義人民共和国の旗 政務院外交部副部長
在任期間 1983年11月 - 不明
1996年6月 - 1996年9月

在任期間 1996年9月 - 不明
2008年8月 - 不明
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朴吉淵
各種表記
チョソングル 박길연
漢字 朴吉淵
発音 パク・キルヨン
英語表記: Pak Kil-yon
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朴 吉淵(パク・キルヨン、朝鮮語: 박길연1943年1月26日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国外交官政治家国連大使外務次官などを歴任。金正日総書記からの信頼が厚く、対米問題について担当した[1]

経歴

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1943年日本統治下の平安北道(現慈江道)に生まれる[2]。国際関係大学卒業[2]1969年に駐ミャンマー領事に[2]1975年には駐シンガポール総領事代理に就任した[2]1982年に外交部米州局長に就任した[2]。翌1983年には外交部副部長に就任し[2]、同年2月にインドで開催された非同盟諸国首脳会議に参加した[2]1986年最高人民会議第8期代議員に選出され[2]、9期まで務めた[2]1985年国連北朝鮮代表部首席代表に就任し[2]1991年7月には国連加盟申請書を提出した[2]。同年9月に国連加盟を果たすと国連大使に就任し[2]、同年11月よりコロンビア大使を兼任[2]1995年にはジョージア州アトランタにあるコカ・コーラ本社を訪問した[3]1996年6月に国連大使を解任され、中東担当の外交部副部長に就任した[2]。同年9月より外務次官[2]1998年7月に実施された最高人民会議第10期代議員選挙では選出されなかった[4]2001年12月に国連大使に再任され[1][2]、アメリカのプリチャード朝鮮半島和平協議担当特使と会談するなど対話の意思を見せ[5]六者会合の受け入れを表明した[6]2002年からカナダ大使を兼任[2]

2006年に北朝鮮が核実験を実施し、安全保障理事会で制裁決議が採択された際には「朝鮮民主主義人民共和国はこれを宣戦布告とみなし、物理的な報復手段をとる」と述べ[7]、議場を蹴立てて出た[8]2008年8月には任期が終了したため国連大使を退任し[9][2]、外務次官に就任した[2]2010年9月には北朝鮮代表として国連総会で基調演説を行った[10][2]2012年には77ヶ国グループ外務長官会議で演説を行い、経済を改善し、国際交流を奨励すると述べた[11]

脚注

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  1. ^ a b 북한 새유엔대사에 박길연씨 부임東亜日報 2001年11月11日
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 박길연 朴吉淵북한지역정보넷
  3. ^ 횡설수설코카콜라 북한상륙 멀지않았다 東亜日報 1997年3月13日
  4. ^ 北최고인민회의 대의원선거전금철-손성필등 상당수 탈락 東亜日報 1998年7月28日
  5. ^ 北朝鮮、米国との対話拒否さらに働きかけへ 東亜日報 2002年2月25日
  6. ^ “6자 회담 26,27일 개최”…아사히 “北, 한미일 제안 수용” 東亜日報 2003年8月11日
  7. ^ 安保理制裁決議…北朝鮮「全面拒否」 東亜日報 2006年10月16日
  8. ^ 会議場を出ていく北朝鮮大使 東亜日報 2006年10月16日
  9. ^ 北朝鮮の朴吉淵・国連大使、来月交代へ 東亜日報 2008年3月20日
  10. ^ 김정은 ‘2인자’로… 北“핵무기 더 강화할 것” 東亜日報 2010年9月30日
  11. ^ 北 朴吉淵「実情に相応し経済構造改善強化」 デイリーNK 2012年10月4日

参考サイト

[編集]

북한정보포털

 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
先代
初代
国連大使
1991年 - 1996年
次代
金亨宇
先代
李衡哲
国連大使
2001年 - 2008年
次代
辛善虎