朱慈炫
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朱慈炫 | |
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南明 | |
称号 | 皇太子 |
出生 |
不詳 不詳 |
死去 |
1662年4月 昆明五華山篦子坡 |
配偶者 | なし |
子女 | なし |
父親 | 永暦帝 |
母親 | 孝剛匡皇后 |
朱 慈炫(しゅ じげん)または朱 慈煊(しゅ じけん、1648年 - 1662年)は、南明の皇太子。
概要
[編集]宗教
[編集]南明の永暦帝の第3子で、生母は孝剛匡皇后王氏。洗礼名はコンスタンティネ(Constantine)。この名前はローマ帝国のコンスタンティヌス帝と同じ名前であり、父の永暦帝はその洗礼を通じて、カトリックをローマ帝国のような国教に変え始めることができることを望んでいた。永暦5年(1651年)、皇太子としての地位を保ち、中国の歴史においてキリスト教に改宗した初の皇太子となった。
生涯
[編集]2人の兄が相次いで消息不明になったため[1]、永暦5年(1651年)に皇太子となった。
永暦16年(1662年)に、匿われたビルマ王ピエ・ミンの裏切りで、清に降った呉三桂によって、父母と兄弟とともに引き渡された。そのとき皇太子の朱慈炫は呉三桂に向かって「逆臣めが、わが明を討ち負かして、われら父子をどうするつもりだ?」と罵ったという。しかし、呉三桂は意に介さずに、夏4月に永暦帝父子を昆明で縊り殺したとも、火刑に処したともいわれる。朱慈炫の享年は15であった。
朱慈炫は台湾を拠点とした明の遺臣の鄭経(鄭成功の長男)によって、哀愍太子と諡された。