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本田玉江

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ほんだ たまえ

本田 玉江
生誕 杉本 玉江
(1924-12-16) 1924年12月16日
神奈川県横浜市末吉町
死没 (2018-04-03) 2018年4月3日(93歳没)
神奈川県横浜市
死因 肺血栓塞栓症
住居 神奈川県横浜市南区万世町
国籍 日本の旗 日本
別名 亀井 玉江(養女先での姓)
時代 昭和 - 平成
著名な実績 大衆演劇の普及と定着
活動拠点 神奈川県横浜市南区万世町 三吉演芸場
肩書き 三吉演芸場 社長→会長
任期 1973年 - 2000年(社長)
2000年 - 2018年(会長)
後任者 本田博
配偶者 本田貢
子供 本田博(長男)
受賞 横浜文化賞(1989年)
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画像外部リンク
本田玉江 - J:COM 横浜人図鑑

本田 玉江(ほんだ たまえ、1924年大正13年〉12月16日 - 2018年平成30年〉4月3日)は、日本実業家神奈川県横浜市の大衆劇場である三吉演芸場の社長、後に会長。横浜唯一の大衆演劇の常打ち劇場である同劇場の経営により、大衆演劇の普及と定着に貢献した[1]。旧姓は杉本[1]。神奈川県横浜市末吉町出身[2]

経歴

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少女期 - 結婚

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江戸時代から続く鍛冶屋の家系で、8人の兄弟姉妹の五女として誕生した。すぐに親戚の亀井家の養女となったが、養父が死去したために実家に戻った。学校の高等科を修了後、家業を手伝いながら、好きな芝居歌舞伎を楽しんだ[1]。当時は横浜歌舞伎座が実家の真裏にあり、実家の一部を歌舞伎座の大道具置き場として貸していた縁もあった[3]

戦後間もない1947年昭和22年)、三吉演芸場の前身である銭湯演芸場の長男である本田貢と結婚した[4]。結婚当日より重病の義母を看取り、空いた時間には銭湯の番台や演芸場の掃除に明け暮れた[5]。本田家は夫の下に弟や妹が6人おり、さらに3人の子宝に恵まれて、大所帯で忙しく働いた[1]

三吉演芸場

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1973年(昭和48年)に義父が死去し、玉江が経営を引き継いだ。これを機に館内を改修して「三吉演芸場」と改称した。改修にあたっては家中の金をかき集め、親類たちから膨大な借金をして資金ぐりをした。玉江はこの借金のために、その後5年にわたり、下着以外に服を一切、買うことができなかった[5]

改修後は夫が1階の銭湯、玉江が2階の演芸場と分業で受け持った。しかしテレビ映画の普及によって演劇が衰退を始め、演劇場を借りていた興行師が興行を辞めた。玉江は以前から興行に興味を持っていたことから、「素人には無理」との周囲の反対を押し切り、さらに「アパートにでもしよう」という夫も説き伏せて、興行に乗り出した。時には客が3人しかいないときもあり、出演する劇団がやりにくく「今日は休ませて」と言われることもあったが、玉江は近所連中から親類に至るまで電話をかけて客をかき集めて、興行を続行した[3]。そのような状況が、5年から6年は続いていた[6]

演芸の工夫

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落語家の桂歌丸は、幼少時より三吉演芸場で芝居を見ていたことや[7]、改修後のこけら落としに出演した縁で、月末日の31日の独演会の開催を申し出た。玉江たちは「活気も出るし、演劇場の特色も打ち出せる」と快諾した。ところが演劇協会から「31日といえば楽日にあたり、その大事な日を渡すことはできない」と反発がかかった。そこで玉江は、31日は自分が劇団を買い取るといって、自腹で劇団に31日の分の出演料を払い、組合を納得させた[3][5][* 1]。こうして1974年(昭和49年)から年5回[7]、月末日に「桂歌丸独演会」が開催されるに至り、後に一門会として2014年(平成26年)まで40年間続いた[1][8]

玉江はさらに、大衆演劇の低迷による客数の減少を憂慮し、演芸場前の中村川を利用した船乗り込み[* 2]を企画した。奉加帳を振り回して寄付を集めて、1975年(昭和50年)に船乗り込みを実現させ、当時売り出し前であった梅沢富美男が振袖姿で出演した[1]。当日は交通整理の警官が出動するほど大賑わいとなり、マスコミの取材も殺到した[5]

その後も専属の劇団を結成したり、他の劇団を招いたりと、興行に工夫を凝らした。地域の老人たちを無料で招待したり、学校の生徒たちを団体割引にしたりと、地域の繋がりも重視した[1]。酔っ払った客の入場を断るなど、雰囲気作りにも気を配った[9][10]

開館50周年記念には、先代夫妻の苦労話を自ら脚本として書き下ろした戯曲『年輪』を上演した。夫が肝臓がんを患ったため、「夫が生きている内に」と、50周年を1年繰り上げての上演であったが[11]、上演中は夫は闘病中のために観劇が叶わず、1979年(昭和54年)に死去した[1]

1989年(平成元年)、大衆演劇の普及と定着に尽くした活動を評価され、横浜文化賞を受賞した[1][12]

廃業の危機と再興

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1997年末に改築・落成した三吉演芸場

1990年代には、演芸場が建物の老朽化により、廃業の危機に見舞われた。桂歌丸らが「三吉演芸場を残す会」を組織し、募金活動により2500万円近い再建資金を集めたが[13]、それでも資金不足であった[14]

玉江は苦悩の挙句、横浜市長宛てに「演芸場が不要なら、きっぱり辞めます。もし残した方がいいと言ってくれるなら、老骨に鞭を打って、息子をひっぱたいて続けます」と手紙を書いた[15][16]

横浜市は「長年にわたって市民に親しまれ、大衆芸能を支えてきた大切な施設」として支援を決定し、市としては初めて民間文化施設への建設援助に踏み切り、1997年(平成9年)の市議会で補正予算として不足分が計上された[17]。こうして演芸場は改築、再建に至った[18][19]

晩年

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2000年(平成12年)[* 3]、玉江の長男の本田博が商社勤務を退職して、三吉演芸場の社長業を継いだ。玉江は会長職に退いたが、その後も芝居好きのあまり、木戸に立つなど演芸場に顔を出し続け、3時間の公演を半分だけでも見ていた[4][21]

2018年(平成30年)4月3日、横浜市内の病院で、肺血栓塞栓症により満93歳で死去した[2]。桂歌丸は玉江の死去にあたり、自身が三遊亭圓朝などの古典を最初に演じたのが三吉演芸場だと語っており、「三吉があったからこそ今の私がある」と、その死去を悼んだ[2]

人物

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演芸場の興行関係は、ヤクザが絡むことも多く、入れ墨を見せつかせて凄む者もいたが、玉江はそうした相手に一切、怯むことはなかった。これは、結婚当初に銭湯の番台に乗ったとき、半年はまともに顔を上げることができなかったというが、その仕事で入れ墨を見慣れたためでもあった[11][22]

歯に衣を着せぬ物言いに「女傑」と冷やかされる一方で、多くの役者や常連からは「お母さん」と慕われた[23]。桂歌丸もまた「三吉のお母さん」と呼んでいた[21]。「下町の肝っ玉母さん」に相応しい、独特なしゃがれ声も特徴であった[16]

芝居を裏の木戸から覗き、手を抜いている芸人を見つけると、すぐに注文をつけた[23]。「舞台で横着されるのは、腹が立つ」と、凛とした姿勢を崩すことはなかった[10][24]。舞台に出演しなかったために「いますぐ出て行け」と追い出された芸人もいた。役者たちからは「付き合いかた間違うと、えらいことになるぞ」と、一目置かれる存在であった[23]

玉江の興行内容は、芝居好きを喜ばせることはできても、採算ベースに乗らないものが多かった。玉江の長男は「私から見ると完全に母の道楽」と語っていた[25]。玉江自身も「劇場なんて、利益を追ったらやれません」と認めており、そうまでして演劇場の主を務める理由を「私は芝居が好きなだけ」と語っていた[26]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「桂歌丸独演会」開始の翌年からは、劇団側が正式に独演会前の30日までの契約となった[6]
  2. ^ 「船乗り込み」については、三吉演芸場#注釈を参照。
  3. ^ 1998年(平成10年)との説もある[20]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 江刺他 2019, pp. 186–187
  2. ^ a b c 「本田玉江さん死去 93歳、三好演芸場会長」『神奈川新聞』神奈川新聞社、2018年4月5日、22面。
  3. ^ a b c 「横浜に生きる女性たちの声の記録」を作成する会 1997, pp. 40–41
  4. ^ a b 山本真男「三吉演芸場会長の本田さん死去 横浜唯一の常打ち小屋」『朝日新聞朝日新聞社、2018年4月10日、東京地方版 神奈川、30面。
  5. ^ a b c d 野口 1989, pp. 62–63
  6. ^ a b 市川 1996, pp. 57–58
  7. ^ a b 「私の道 桂歌丸さん 寄席は新ネタ挑戦の道場」『読売新聞読売新聞社、2014年3月29日、東京朝刊、32面。
  8. ^ 中島小百合「「桂歌丸一門会」有終の美 三吉演芸場と歩んだ40年」『神奈川新聞』2014年11月25日、7面。
  9. ^ 「横浜に生きる女性たちの声の記録」を作成する会 1997, p. 46.
  10. ^ a b 「若者に受ける“新鮮さ”舞台裏拝見 かながわの文化現場」『朝日新聞』1993年3月23日、東京地方版 神奈川。
  11. ^ a b 遠山彰「ハマの演芸場 女館主「なじみ客の憩い守る」」『朝日新聞』1987年7月30日、東京夕刊、3面。
  12. ^ 過去の受賞者一覧 横浜市”. 横浜文化賞. 横浜市. 2020年7月2日閲覧。
  13. ^ 松野孝司 (2012年5月10日). “約80年の歴史を誇る「三吉演芸場」とはどんなところ?”. はまれぽ.com. Poifull. p. 1. 2020年7月2日閲覧。
  14. ^ 谷口崇子「“下町情緒残して、生まれ変わります”横浜の芝居小屋「三吉演芸場」」『毎日新聞毎日新聞社、1996年6月22日、地方版 神奈川。
  15. ^ 石浜友理「ひと紀行・かながわ街物語 三吉演芸場 大衆演劇を支えて」『読売新聞』2005年6月26日、東京朝刊、36面。
  16. ^ a b 服部宏「イマカナ エンターテインメント 追悼 横浜・三吉演芸場会長 本田 玉江さん 飾らず、折り目正しく」『神奈川新聞』2018年4月11日、13面。
  17. ^ 「大衆芸能を救え! 三吉演芸場の建て替え、横浜市が2700万円援助」『毎日新聞』1997年12月5日、地方版 神奈川。
  18. ^ 「募金実り、灯再び 横浜の大衆芸能拠点「三吉演芸場」」『朝日新聞』1997年12月26日、東京地方版 神奈川。
  19. ^ 「熱気球」『中日新聞中日新聞社、1997年12月26日、朝刊、23面。
  20. ^ 中村翔樹「「日本人のDNAに刻まれている」最古の大衆演劇専門劇場が横浜に」『産経新聞産業経済新聞社、2017年9月24日、1面。2020年7月2日閲覧。
  21. ^ a b 高田久美子「文化亭 ハマの演芸支えた二人」『神奈川新聞』2018年7月26日、14面。
  22. ^ 市川 1996, pp. 55–57
  23. ^ a b c 「本田玉江さん(かながわ・100人の肖像)」『朝日新聞』1994年11月13日、東京地方版 神奈川。
  24. ^ 「本田玉江さん 三吉演芸場の女小屋主(ヨコハマの人)」『朝日新聞』1989年6月6日、東京地方版 神奈川。
  25. ^ 伊藤彰浩「親子継業 演芸場(横浜市南区)本田玉江・博さん」『読売新聞』2000年1月14日、東京朝刊、32面。
  26. ^ 市川 1996, pp. 58–59

参考文献

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  • 市川隆「本田玉江さん(芝居小屋オーナー)」『アミューズ』第49巻第7号、毎日新聞社、1996年4月10日、NCID AN10444857 
  • 江刺昭子、史の会編著『時代を拓いた女たち かながわの112人』 第III集、神奈川新聞社、2019年7月26日。ISBN 978-4-87645-597-3 
  • 野口潤子「大衆芸能の灯を守り続ける本田玉江さんの芝居人生」『毎日グラフ』第42巻第47号、毎日新聞社、1989年12月3日、NCID AN10247856 
  • 「横浜に生きる女性たちの声の記録」を作成する会 編『横浜に生きる女性たちの声の記録』 第1集、横浜女性フォーラム、1997年10月。全国書誌番号:99049746