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本多忠紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本多忠紀
本多忠紀
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政2年11月27日1820年1月12日
死没 明治16年(1883年2月16日
改名 哲四郎(幼名)、忠紀
別名 静翁
戒名 温徳院殿静翁楽真大居士
墓所 東京都墨田区向島の弘福寺
官位 従五位下能登守
幕府 江戸幕府寺社奉行奏者番若年寄
主君 徳川家茂慶喜
陸奥泉藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 本多忠知:寺沢氏の娘・お輝
養父本多忠徳
兄弟 忠徳忠紀、佐多、大久保忠邦正室、井上正員正室、岡田善宝正室、仙石久祇正室、石川総詮正室、小出英照室、遠山景明室ら
正室堀直格の娘
継室柳沢里顕の娘
養子忠伸
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本多 忠紀(ほんだ ただとし)は、江戸時代後期の大名陸奥国泉藩の第6代藩主官位従五位下能登守。忠以系本多家9代。

経歴

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文政2年(1819年)11月27日、第4代主・本多忠知の4男として誕生。万延元年(1860年)8月20日、兄で5代藩主・忠徳が死去した際、その養子として襲封した。同年9月1日、第14代将軍・徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下能登守に叙任する。文久3年(1863年)10月1日に寺社奉行に任じられる。同年10月22日に奏者番の再置により同職を加役される。元治元年(1864年)7月6日に若年寄に昇進したが、同年12月12日に罷免され、帝鑑之間詰となった。慶応2年(1866年)6月22日、若年寄に再任されるが、翌慶応3年(1867年)4月27日には職を辞している。

慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、当初は新政府軍に恭順の意を唱えるが、仙台藩米沢藩の要請に応じ奥羽越列藩同盟に加盟する。その結果、新政府軍の攻撃を受けて同年6月28日に泉陣屋は陥落し、忠紀は仙台藩に避難した。9月24日、忠紀は新政府軍に対し降伏・謝罪を申し入れ、9月27日に認められた。正式な処分の下るまでの間、謹慎を命じられた。同年11月5日、官位を止められた。忠紀は新政府に敵対したことにより、同年12月7日に2000石の減封、および強制隠居を命ぜられ、家督は養子の忠伸本多忠行の長男)が継いだ。

明治2年(1869年)10月13日、従五位に復した。明治16年(1883年)2月16日に死去した。享年65。

系譜

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父母

正室、継室

養子