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木村象雷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 象雷
国籍 日本の旗 日本
泳法 背泳ぎ
生年月日 (1908-02-07) 1908年2月7日
生誕地 日本の旗 日本 岡山県
没年月日 (1986-01-26) 1986年1月26日(77歳没)
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木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日[1][2][注釈 1] - 1986年(昭和61年)1月26日[4][1][2])は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会[注釈 2]の取材に当たり[6]、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。

経歴

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岡山県美作地方[2](現在の勝田郡勝央町[6])出身。おじに文学者の木村毅がいる[6]

京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ[3]。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという[7][注釈 3]

早稲田大学に入学[3]。大学在学中[8][9]1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった[1]

大学卒業後は同盟通信(のちの共同通信)に入社[3]1936年ベルリンオリンピックでは特派員として報道に携わる[3]。帰国後、朝日新聞社に移る[3]。第二次世界大戦中は兵役を務め[3]、復員後は函館新報、スポーツニッポンを経て、産業経済新聞社に入社した[3]

産業経済新聞社では、大阪本社運動部長を務める[10][2][11]。1955年にはスポーツ専門紙『サンケイスポーツ』の創刊に、実質上の責任者として携わった[10][5]。定年退職後[2]1964年東京オリンピックではフリーランスとして取材を行い[2]、これを最後に記者業を引退した[5]

著作

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  • 高石勝男と共著)『水泳日本』改造社、1934年。
  • 『世紀のオリンピック : アテネから東京へ』山海堂、1963年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「2月9日」とする記事もある[3]
  2. ^ 勝央美術文学館によれば「4大会」とある。賀川浩によれば1936年ベルリン、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマと4回の特派員経験[5]に加え、フリーランスとして1964年東京大会の取材にもあたっている[2]
  3. ^ 賀川によれば、水泳は「京都時代に疎水を道場とする水練学校で身につけた」とある[2]

出典

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  1. ^ a b c Shourai Kimura”. Olympedia. 2021年3月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 賀川浩. “世紀のオリンピックの著者 スポーツ記者の巨星 木村象雷(上)”. 賀川サッカーライブラリー. 2021年3月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 賀川浩. “スポーツ記者になって(1)”. 賀川サッカーライブラリー. 2021年3月25日閲覧。
  4. ^ 日本水泳連盟 『創立70周年記念誌』1994年、434頁
  5. ^ a b c 賀川浩. “サンケイスポーツ新聞を創刊 『熱戦一番』『山ある記』を生んだ編集長 木村象雷(下)”. 賀川サッカーライブラリー. 2021年3月25日閲覧。
  6. ^ a b c 木村毅とスポーツII”. 勝央美術文学館 (2020年7月1日). 2021年3月25日閲覧。
  7. ^ 沿革”. 京都踏水会. 2021年8月24日閲覧。
  8. ^ 中澤 2010, 41頁.
  9. ^ 束原 2013, 258頁.
  10. ^ a b 賀川浩. “スポーツ記者になって(4)”. 賀川サッカーライブラリー. 2021年3月25日閲覧。
  11. ^ 賀川浩. “後輩の育成に力を注いだ 英語に堪能なオリンピック記者 木村象雷(中)”. 賀川サッカーライブラリー. 2021年3月25日閲覧。

参考文献

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