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木戸孝正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木戸 孝正
きど たかまさ
木戸 孝正(きど たかまさ)
生年月日 1857年9月14日
安政4年7月26日
出生地 山口県[1]
没年月日 (1917-08-10) 1917年8月10日(59歳没)
出身校 開成学校
東京大学理学部
大阪専門学校
称号 正二位
銀製黄綬褒章
第三等タイ王冠勲章
勲四等旭日小綬章
旭日中綬章
勲二等瑞宝章
配偶者 先妻:木戸好子木戸孝允の長女)
後妻:寿栄子(山尾庸三の長女)
子女 長男:木戸幸一(侯爵、内大臣)
次男:和田小六(工学者)
長女:時乗治子(陸軍中将・時乗寿の妻)
次女:兒玉八重子(陸軍大佐兒玉常雄の妻)

在任期間 1890年明治23年)2月 - 1917年大正6年)8月10日
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木戸 孝正(きど たかまさ、安政4年7月26日1857年9月14日〉- 大正6年〈1917年8月10日[2])は、日本宮内官、政治家華族侯爵)。貴族院侯爵議員。旧姓は来原、幼名は彦太郎[2]

経歴

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長州藩士来原良蔵治子木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる[2][3]。木戸孝允の養嗣子であった木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年明治17年)11月18日、侯爵襲爵しゅうしゃく[2]1890年(明治23年)2月、貴族院令施行により貴族院侯爵議員に任じられ死去するまで在任した[4]

1871年明治4年アメリカ合衆国に留学[4]。帰国後、開成学校東京大学理学部大阪専門学校修了[3][4]1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て[4]1902年(明治35年)に東宮侍従長式部官1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。1911年(明治44年)には維新資料編纂委員を務めた[1]。墓所は多磨霊園

栄典

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位階
勲章
外国勲章佩用允許

親族

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脚注

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  1. ^ a b 20世紀日本人名事典「木戸 孝正」 (コトバンク)
  2. ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』上巻、503 - 504頁。
  3. ^ a b 『人事興信録』第4版、き2頁。
  4. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』15頁。
  5. ^ 官報』第1509号「叙任及辞令」1917年大正6年)8月11日。
  6. ^ 『官報』第1219号「彙報」1887年7月22日。
  7. ^ 『官報』第6675号「叙任及辞令」1905年9月27日。
  8. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  9. ^ 『官報』第924号「叙任及辞令」1915年8月30日。
  10. ^ 『官報』第2355号「叙任及辞令」1891年5月9日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録』第4版、1915年
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
公職
先代
花房義質
日本の旗 閑院宮附別当
1908年 - 1910年
次代
長崎省吾
先代
高辻修長
日本の旗 東宮侍従長
1902年 - 1908年
次代
一条実輝
日本の爵位
先代
木戸正二郎
侯爵
木戸(孝允)家第2代
1884年 - 1917年
次代
木戸幸一