木戸孝正
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木戸 孝正 きど たかまさ | |
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木戸 孝正(きど たかまさ) | |
生年月日 |
1857年9月14日 (安政4年7月26日) |
出生地 | 山口県[1] |
没年月日 | 1917年8月10日(59歳没) |
出身校 |
開成学校 東京大学理学部 大阪専門学校 |
称号 |
正二位 銀製黄綬褒章 第三等タイ王冠勲章 勲四等旭日小綬章 旭日中綬章 勲二等瑞宝章 |
配偶者 |
先妻:木戸好子(木戸孝允の長女) 後妻:寿栄子(山尾庸三の長女) |
子女 |
長男:木戸幸一(侯爵、内大臣) 次男:和田小六(工学者) 長女:時乗治子(陸軍中将・時乗寿の妻) 次女:兒玉八重子(陸軍大佐・兒玉常雄の妻) |
在任期間 | 1890年(明治23年)2月 - 1917年(大正6年)8月10日 |
木戸 孝正(きど たかまさ、安政4年7月26日〈1857年9月14日〉- 大正6年〈1917年〉8月10日[2])は、日本の宮内官、政治家、華族(侯爵)。貴族院侯爵議員。旧姓は来原、幼名は彦太郎[2]。
経歴
[編集]長州藩士・来原良蔵、治子(木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる[2][3]。木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年(明治17年)11月18日、侯爵を
1871年(明治4年)アメリカ合衆国に留学[4]。帰国後、開成学校、東京大学理学部、大阪専門学校を修了[3][4]。1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て[4]、1902年(明治35年)に東宮侍従長兼式部官、1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。1911年(明治44年)には維新資料編纂委員を務めた[1]。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1887年(明治20年)7月21日 - 銀製黄綬褒章[6]
- 1905年(明治38年)9月26日 - 勲四等旭日小綬章[7]
- 1914年(大正3年)6月18日 - 旭日中綬章[8]
- 1915年(大正4年)8月28日 - 勲二等瑞宝章[9]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]- 妻:木戸好子(木戸孝允長女)
- 後妻:木戸寿栄子(山尾庸三長女)[2]
- 長男:木戸幸一(侯爵、内大臣)[2]
- 次男:和田小六(工学者)[2]
- 長女:時乗治子(陸軍中将・時乗寿の妻)[2]
- 次女:兒玉八重子(陸軍大佐・兒玉常雄の妻)[2]
脚注
[編集]- ^ a b 20世紀日本人名事典「木戸 孝正」 (コトバンク)
- ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』上巻、503 - 504頁。
- ^ a b 『人事興信録』第4版、き2頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』15頁。
- ^ 『官報』第1509号「叙任及辞令」1917年(大正6年)8月11日。
- ^ 『官報』第1219号「彙報」1887年7月22日。
- ^ 『官報』第6675号「叙任及辞令」1905年9月27日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 『官報』第924号「叙任及辞令」1915年8月30日。
- ^ 『官報』第2355号「叙任及辞令」1891年5月9日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第4版、1915年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
公職 | ||
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先代 花房義質 |
閑院宮附別当 1908年 - 1910年 |
次代 長崎省吾 |
先代 高辻修長 |
東宮侍従長 1902年 - 1908年 |
次代 一条実輝 |
日本の爵位 | ||
先代 木戸正二郎 |
侯爵 木戸(孝允)家第2代 1884年 - 1917年 |
次代 木戸幸一 |