木幡継清
木幡 継清(こわた(こはた) つぐきよ、天文3年(1534年)? - 元和4年(1618年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。相馬氏の家臣。『奥相茶和記』などに見られる人物。
相馬盛胤から利胤までの3代の主君に仕え、主に軍事面で功績を挙げたといわれている。木幡高清の兄という説があるが、高清には姉(青田常治の妻)と弟二人がいたのみである[1]。継清は相馬市に編纂された『衆臣家譜』での木幡經清(大膳后因幡)または經清(経清)・玄清父子に比定される。元和4年(1618年)に死去した。
参考①・木幡經清1(大膳 后因幡)
[編集]時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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死没 | 元和4年(1618年)2月9日 |
別名 | 経清 木幡大膳 后因幡 |
戒名 | 雄翁智公 |
墓所 | 福島県南相馬市原町区 新祥寺 |
主君 | 盛胤→義胤→利胤 |
藩 | 相馬中村藩 |
氏族 | 木幡氏 |
父母 | 父:木幡政清、母:藤橋紀伊胤泰女 |
兄弟 | 經清(経清)、藤橋胤重、女子(岡田左衛門胤政室)、清光、清重 |
子 | 長清[2][3]、内膳、主殿 |
木幡盛清の死後、相馬盛胤によって木幡氏嫡流とされた木幡政清(出羽)の名跡を継いだ。
行方郡千倉庄(現在の南相馬市鹿島区千倉)一郷(陸奥真野郷)の侍大将として活躍した。
天正16年(1588年)5月の相馬義胤の三春城の危難のときに従軍し、同年6月の田村領浅川塁(石川郡浅川町)攻めのとき戦功をあげた。
また同17年(1589年)5月17日、田村領常盤(田村市常葉町常葉)攻めのときに軍功。
同18年、5月14日、伊達勢と駒ヶ嶺に戦い、相馬敗軍のとき、相馬盛胤に従い殿軍を務め、敵を討ちながら退却。「其の功抜群なり。此の他、処々の戦陣に軍功を竭す。」と評された[4]。本領五百二十九石、後に牛越村(南相馬市原町区牛越)に移住。
元和4年(1618年)2月9日に死去した。「衆臣家譜」には年数不知(没年齢知らず)とある。
木幡政清(出羽)――經清(大膳 后因幡)――長清(勘解由)――信清(薩摩)
| |―某(内膳)無子孫(原文ママ)
| |―某(主殿)無子孫 采地222石(原文ママ)
|―胤重(藤橋作右衛門)外祖父藤橋紀伊胤泰養子[5] 母者同經清
|―女(岡田左衛門胤政妻)母川俣館(伊達郡川俣町)[6]主櫻田右兵衛宗秀女
|―清光(源兵衛)母同上 妻牛来[7]弥兵衛女
|―清重(半平)系在別(別の系譜あり)
参考②・木幡經清 2(五郎右衛門のち近江)
[編集]時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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死没 | 寛永元年(1624年)甲子3月15日 |
別名 | 経清、五郎右衛門、木幡近江 |
戒名 | 祖岩宗本 |
墓所 | 立谷村(福島県相馬市立谷)龍朔寺 |
主君 | 盛胤→義胤→利胤 |
藩 | 相馬中村藩 |
氏族 | 木幡氏 |
父母 | 父:木幡彦市郎武清 |
兄弟 | 正清、懿清、經清(経清)、清房 |
妻 | 滝迫日向清詮女 |
子 | 玄清[3]、清勝、信清 |
同じく「衆臣家譜」にみられる人物。初名を木幡五郎右衛門。木幡武清(彦市郎)の三男で「木幡近江」の子としている系譜も同書にある。後に官途名・受領名を近江と改めた。
盛胤・義胤に仕えた。宇多郡立谷村(相馬市立谷)に住み、永禄の頃から天正中に処々の戦場で数々の戦功を立てた。
「一書ニ曰ク、經清・清房兄弟ヲ以、彦市郎武清之子ト為ス。」とある[1]。
寛永元年(1624年)甲子3月15日死去。没年齢は記されていない。
なお、父・彦市郎武清は天正4年(1576年)丙子6月下旬、名取郡座流川合戦のとき討死(56歳)、長兄正清は同年7月17日、矢野目合戦のとき闘死(年齢なし)、次兄懿清は天文 (元号)以来、元亀・天正に至って諸所に戦功有り、永禄5年(1562年)壬戌、主君盛胤に従い采地十貫文を賜る。行方郡吉奈(南相馬市小高区吉名)に住み、慶長4年(1599年)己亥12月24日死去(78歳)とある[1]。
木幡近江
木幡武清(彦市郎)――正清(マサキヨ)(四郎右衛門)
|―懿清(木幡甲斐)――女(青田太郎右衛門常治妻)
| |―高清(源左衛門のち駿河)――清吉(藤左衛門)
| |―清宗(四郎右衛門)
| |―清重(藏人主)
|―經清(五郎右衛門のち近江)――玄清(與惣兵衛)――信清(小兵衛)
| |―清勝(五郎右衛門)
| |―信清(小兵衛)
|―清房(作助のち甚五右衛門)
参考③・木幡玄清
[編集]時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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死没 | 慶長4年(1599年)巳亥10月17日 |
別名 | 木幡與惣兵衛 |
戒名 | 智玄太勇 |
墓所 | 立谷村(福島県相馬市立谷)龍朔寺 |
主君 | 盛胤→義胤→利胤 |
藩 | 相馬中村藩 |
氏族 | 木幡氏 |
父母 | 父:木幡經清 |
兄弟 | 玄清、清勝、信清 |
子 | 信清 |
「参考②・木幡經清 2」の子。相馬盛胤[8]は天正18年(1590年)5月14日、童生淵の戦いのとき玄清の抜群の戦功を褒めた。陣所において、盛胤が自らの手で貞宗の懐剣を賜った。この時相馬は敗軍。「玄清殿為テ(殿軍をして)戦忠ヲ抽ンス(ぬきんでる)」とある[1]。盛胤の次男・相馬隆胤の戦死の童生淵の戦いで殿軍を務めたことがわかる。
慶長4年(1599年)巳亥10月17日、父・經清に先んじて死去した。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『衆臣家譜』
- ^ 『千葉氏の一族』の木幡氏の系譜に政清(出羽守)――経清(因幡守)――長清(勘解由)――信清(薩摩)
- ^ a b 『伊達と相馬』森鎮雄の「相馬の一族家臣(百人選択)木幡小兵衛信清」の項目に木幡近江経清――与惣兵衛玄清――小兵衛信清。経清・玄清父子及び経清の弟甚五左衛門清房は永禄、元亀、天正中武功を立てたと記述がある。
- ^ 木幡玄清の功績と重なる。
- ^ 『藤橋氏』桓武平氏標葉流
- ^ 河股城の名は『桜田文書』によれば、川俣町飯坂の「城の倉(じょうのくら)城」を「川俣の城」とし、館の山の「河股の城」は「元親が在城を任された城」と書き上げている。よって桜田元親の旧居城の館の山を「河股城」と統一している。天文の乱から伊達政宗の時代まで「川俣館」は「河股城」とは別個の城で、現在の川俣町が伊達と相馬の係争の地として意識されていたことがわかる。
- ^ 小高区に牛来という地区があり、牛来玄蕃、牛来伊賀など相馬氏の家臣も存在した。
- ^ この時、義胤は不在。父盛胤と隆胤が中村城に入り相馬領北方の軍事を担当していた。