朝日会館
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朝日会館 | |
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新築記念当時の絵葉書 | |
情報 | |
用途 | 映画上映、劇場、展示場 |
設計者 | 松下甚三郎 |
構造設計者 | 青柳貞世 |
施工 | 竹中工務店 |
事業主体 | 朝日新聞社 |
管理運営 | 社団法人朝日新聞社会事業団 |
構造形式 | 鉄骨、鉄筋コンクリート |
階数 | 地上6階、地下1階 |
着工 | 1925年(大正14年)3月25日 |
竣工 | 1926年(大正15年)10月9日 |
所在地 |
〒530-0005 大阪府大阪市北区中之島 |
座標 | 北緯34度41分36.7秒 東経135度29分48.0秒 / 北緯34.693528度 東経135.496667度座標: 北緯34度41分36.7秒 東経135度29分48.0秒 / 北緯34.693528度 東経135.496667度 |
朝日会館(あさひかいかん)はかつて大阪市北区中之島に存在した文化施設である[1]。経営母体は大阪朝日新聞社で、映画上映、コンサート、演劇上演、美術品展示といったさまざまな用途に使われ、戦前から戦後にかけて、関西の文化活動の中心地のひとつであった。
概要
[編集]朝日会館は、1926年に竹中工務店の施工で建設された。1962年に閉館した後の役割を担っているのが現在のフェスティバルホールである。大阪以外に京都や神戸、名古屋にも、朝日会館が建設された[1]。
朝日会館での催し
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朝日会館では、海外から招へいした音楽家による演奏会が行われた。戦前には宝塚歌劇団[2]、その後も藤原歌劇団や宝塚交響楽団の公演も行われた[1]。また、映画上映会は「映画ア―ベント」と呼ばれ、朝日会館の集客の目玉であった[1]。その他、関西の劇団だけでなく、東京の劇団も来演した。翻訳劇のほか、戦時下にも新劇の上演が多く行われた[1]。歌劇や劇団に限らず、能楽など日本文化演目も上映され、多くの演目が上映された [3]。
機関紙『会館芸術』
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朝日会館では、1931年から1953年まで機関誌が発行された(全222冊)[4]。創刊号の特集は、舞踊家の伊藤道郎(イトウ・ミチオ)と声楽家のトティ・ダル・モンテであった[1]。当初は朝日会館の催しのパンフレットの機能が強かったが、1933年7月に月刊化され、評論や小説が掲載されるなど、読み物としての側面が強くなった[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f “朝日会館および『会館芸術』について”. 朝日会館・会館芸術研究会. 2017年11月12日閲覧。
- ^ 文化・情報 膨らむ夢 フェスティバルホール新時代へ - 朝日新聞Web版・2007年4月2日付け掲載記事
- ^ “大阪朝日会館が果たした役割”. 大阪音楽大学. 2017年12月28日閲覧。
- ^ a b “会館芸術 第Ⅰ期 戦前篇 全11巻”. ゆまに書房. 2017年11月12日閲覧。
参考文献
[編集]- 坪内祐三『まぼろしの大阪』ぴあ、2004年
- なつかしの大阪朝日会館編集グループ『なつかしの大阪朝日会館―加納正良のコレクション』LEVEL、2004年
- 朝日会館・会館芸術研究会ホームページ
- 長木誠司、ヘルマン・ゴチェフスキ、前島志保監修『会館芸術』ゆまに書房、2016〜2017年
- 『建築雑誌』第40輯第489号、建築学会、1925年11月