有馬頼善
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永8年1月15日(1779年2月20日) |
死没 | 文化13年3月23日(1816年4月20日) |
改名 | 定之丞(幼名)[1]、頼善 |
戒名 | 雄心院殿孤峯宗秀大居士[2] |
墓所 | 久留米市京町の梅林寺[2] |
藩 | 筑後久留米藩世嗣 |
氏族 | 摂津有馬氏 |
父母 | 有馬頼貴、きくえ |
兄弟 | 恒、里代、栄、頼董、頼善、頼端、頼礼、品、木下頼寧、頼久、有馬照長室、錘、国、順、庭子ら |
子 | 有馬政之丞 |
有馬 頼善(ありま よりよし[1])は、江戸時代中期の筑後国久留米藩の世嗣。
生涯
[編集]安永8年(1779年)1月15日[3]、8代藩主・有馬頼貴の次男として誕生[1](夭折した男子が1人いるため、三男と記されることもある[3])。母は側室の「きくえ」[4]。
兄・頼董が14歳で早世したため、天明6年(1786年)11月23日に嫡子となる[1]。しかし、生まれつき癇性であり、凶暴であったために[3]、寛政4年(1792年)に久留米への帰国が幕府に願い出られた[2]。寛政5年(1793年)3月25日廃嫡[1]、かわって弟・頼端が嫡子となった。『寛政重修諸家譜』では廃嫡の事情を「やまひ」によるものと記している[1]。
廃嫡後は久留米城内に一室をあてがわれていたが[3]、寛政10年(1798年)6月9日に挨拶に訪れた藩士を鉄砲で射殺する事件を起こし、居室に「御囲」が作られた[2]。
鷹司家の娘と婚約していたが、廃嫡に際して破棄された[2]。寛政9年(1792年)には子の政之丞が生まれているが、幼いうちに京都で僧になっている[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
- 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)