有町昌昭
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1955年撮影 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県京都郡行橋町(現:行橋市) |
生年月日 | 1935年11月13日(89歳) |
身長 体重 |
164 cm 63 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1954年 |
初出場 | 1954年 |
最終出場 | 1955年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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有町 昌昭(ありまち まさあき、1935年11月13日 - )は、福岡県京都郡行橋町(現:行橋市)[1]出身の元プロ野球選手。
経歴
[編集]小倉高校では1953年に第25回選抜高等学校野球大会へ出場し、ベスト4まで進んだ[1]。準決勝は後に優勝校となる加藤昌利がいた洲本高校と対戦し、5対1で敗れた[1]。
1954年に毎日オリオンズへ入団。2年目の1955年には三塁手で開幕スタメンを獲得し、以降は遊撃手のレギュラーを確保するが、同年の西鉄ライオンズ戦で中西太の打った地を這うようなライナーが有町の左膝を直撃し、その場で一歩も動けず担架で運ばれた[2]。その影響もあり、「オレはあんなの捕る自信がない」と言って同年限りで引退した[3]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1954 | 毎日 | 37 | 102 | 87 | 11 | 21 | 7 | 0 | 0 | 28 | 12 | 0 | 1 | 1 | 3 | 11 | -- | 0 | 10 | 4 | .241 | .316 | .322 | .638 |
1955 | 96 | 225 | 195 | 17 | 39 | 5 | 0 | 1 | 47 | 18 | 0 | 0 | 2 | 1 | 22 | 0 | 5 | 33 | 3 | .200 | .295 | .241 | .536 | |
通算:2年 | 133 | 327 | 282 | 28 | 60 | 12 | 0 | 1 | 75 | 30 | 0 | 1 | 3 | 4 | 33 | 0 | 5 | 43 | 7 | .213 | .302 | .266 | .568 |
背番号
[編集]- 39 (1954年)
- 9 (1955年)
脚注
[編集]- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、24ページ
- ^ “あのころ僕らは若かった 豊田泰光【第31回】3番・サード 中西”. スポーツニッポン (2009年10月5日). 2010年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月7日閲覧。
- ^ “ニッポン新潮流 怪童・中西太の人材育成”. Voice. 2013年6月7日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 有町昌昭 - NPB.jp 日本野球機構