有田二三男
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府岸和田市 |
生年月日 | 1955年4月10日(69歳) |
身長 体重 |
176 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1973年 ドラフト2位 |
初出場 | 1974年9月27日 |
最終出場 | 1977年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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有田 二三男(ありた ふみお、1955年4月10日- )は、大阪府岸和田市[1] 出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。
来歴・人物
[編集]北陽高校では、3年生時の1973年に、エース・ピッチャーとして選抜に出場。同大会の初戦では、この大会で屈指の好投手と評された江川卓がいる作新学院高校(栃木)と対戦した。この試合で有田は2失点と好投し打撃でも五番打者として[2] 江川から三塁打を放つが、打線は江川を打ち崩す事ができず、0-2で敗退した。
この年には、夏の甲子園にも出場。初戦となった2回戦では、秋田高校に1-0で勝った。続く3回戦の高鍋高校戦では、有田がノーヒット・ノーランを達成[1]。スコアは秋田高校との試合と同じ、1-0であった。そして準々決勝では今治西高校と対戦したが、2-6で敗れ、準決勝進出は成らず。
この時の北陽高校の同期には、後に近畿大学やクラウンライターライオンズ・西武ライオンズなどでプレーする慶元秀章がおり、2年後輩には早稲田大学を経て阪神タイガースで活躍する事になる岡田彰布がいた。オーバースローからの伸びのあるストレートが武器、カーブ、シュートも投げる。
同年11月に開かれたプロ野球ドラフト会議で、近鉄バファローズからの2位指名を受け、高校卒業後に入団。
しかしプロでは苦しみ、1軍の試合に登板できたのは1974年と1977年のわずか1試合ずつ、計2試合だけだった。
1979年オフに引退し、その後は1980年から1984年まで、読売ジャイアンツで打撃投手を務めた[1]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974 | 近鉄 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 |
1977 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 12 | 3.0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 3.00 | 1.67 | |
通算:2年 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 17 | 4.0 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2.25 | 1.75 |
記録
[編集]- 初登板:1974年9月27日、対太平洋クラブライオンズ後期13回戦(平和台球場)、8回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初先発登板:1977年10月9日、対クラウンライターライオンズ前期13回戦(平和台球場)、3回1失点で勝敗つかず
背番号
[編集]- 13 (1974年 - 1978年)
- 59 (1979年)
- 96 (1980年 - 1984年)
脚注
[編集]- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、24ページ
- ^ “【センバツ高校野球】今こそ振り返りたい”1973年の江川卓” (2016年3月18日)”. エキサイトニュース. (2016年3月18日) 2020年3月1日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 有田二三男 - NPB.jp 日本野球機構