曲秉善
表示
曲秉善 | |
---|---|
『大満洲国建国紀念写真帖』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: | 1901年(光緒27年)8月[1][2][3][4][5] |
死去: | 没年不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区瀋陽県[2][3][4] |
職業: | 官僚・医師 |
各種表記 | |
繁体字: | 曲秉善 |
簡体字: | 曲秉善 |
拼音: | Qū Bǐng-shàn |
ラテン字: | Ch'ü Ping-shan |
和名表記: | きょく へいぜん |
発音転記: | チュー・ピンシャン |
曲 秉善(きょく へいぜん、1901年[5] – 没年不詳)は、中華民国・満洲国の官僚・医師。
事績
[編集]1926年(民国15年)4月、満洲医科大学専門部に入学し、1930年(民国19年)3月に卒業した[6]。なお、この間に奉天東北大学法学院でも学んだとされる[2][4]。1930年4月から翌1931年(民国20年)11月まで、満洲医科大学精神病教室医員補をつとめた。
満洲事変後の1931年11月に奉天自治指導部指導課主事に任命される。満洲国建国後の1932年(大同元年)4月から1935年(康徳2年)3月まで、民政部総務司文書科長をつとめた。同年4月、民政部総務司資料科長に転じるとともに、満洲国協和会に加わった[6]。
1936年(康徳3年)4月、黒河省民政庁長に任命される。翌1937年(康徳4年)7月、満洲国中央へ呼び戻され、内務局監督処参事官兼第二科長となる。10月、経済部参事官に移り、更に協和会でも中央本部委員となった[7]。1938年(康徳5年)10月、協和会中央本部実践部長に起用され、1940年(康徳7年)7月、中央本部国兵事務局局長となる[6]。1941年(康徳8年)5月、国務院へ呼び戻され、民生部厚生司長に任命された[1][8]。1943年(康徳10年)4月1日、四平省長に任命され[1][6]、満洲国崩壊までつとめた。
満洲国崩壊後の1945年9月11日、曲秉善はソ連軍に逮捕され、シベリアへ連行された[6]。1950年、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所で思想改造を受けた。1964年12月28日の第5回特赦で釈放されている[9][10]。
曲秉善の没年は不詳となっている。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 満蒙資料協会編(1943)、691-692頁。
- ^ a b c 満洲国通信社(1942)、178頁。
- ^ a b 尾崎監修(1940)、15頁。
- ^ a b c 帝国秘密探偵社編(1943)、「満洲」104頁。
- ^ a b 帝国秘密探偵社編(1943)は「光緒20年(1894年)」生まれとしているが、満蒙資料協会編(1943)と満洲国通信社(1942)、尾崎監修(1940)に従う。
- ^ a b c d e 中央档案館編(2000)、374-375頁。
- ^ 以下、中央档案館編(2000)には各種兼職も多数記載されているが、主要な役職を除き省略する。
- ^ 中央档案館編(2000)、375頁によると同年4月。
- ^ 沈(2011)、222頁。
- ^ この回の特赦では、李守信・吉興・王陵基らも釈放されている。
参考文献
[編集]- 「曲秉善筆供(1954年8月21日)」中央档案館編『偽満洲国的統治与内幕―偽満官員供述』中華書局、2000年。ISBN 7-101-01888-2。
- 沈燕『偽満官吏』吉林人民出版社、2011年。
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第四版』満蒙資料協会、1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 『満洲国現勢 康徳十年版(昭和十八年版)』満洲国通信社、1942年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。