景浦直孝
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人物情報 | |
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別名 | 号:景浦稚桃 |
生誕 |
1875年7月12日 日本愛媛県松山城下北夷子町(現松山市三番町) |
死没 |
1962年8月19日(87歳没) 日本愛媛県松山市 |
出身校 | 愛媛県立伊予尋常中学校 |
両親 | 父:景浦充孝、母:景浦與禰 |
子供 | 景浦勉 |
学問 | |
活動地域 | 日本愛媛県 |
研究分野 | 歴史学 |
主な業績 | 『伊予史精義』『伊予史論考』 |
学会 | 伊予史談会 松山子規会 |
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。
生涯
[編集]愛媛県松山城下北夷子町(現松山市三番町)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。
1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。(委員長は愛媛県立松山商業学校(現松山商業高校)校長陶山斌二郎、他委員は同校教諭羽田又永)『愛媛県誌稿』は1917年(大正6年)に出版される。景浦は、『愛媛県誌稿』の執筆にあたり地域史料調査の必要性から、熱心に郷土史料の古記録・古文書を蒐集していた西園寺源透と知り合い交流するようになる。1914年(大正3年)に西園寺源透、曽我部一郎とともに伊予史談会を設立する。
1924年(大正13年)、景浦自身の研究成果に加えて、西園寺源透・曽我部一郎・菅菊太郎・長山源雄ら伊予史談会仲間の研究成果・史説を援用して、初の系統的な伊予の通史である『伊予史精義』を出版した。
1960年(昭和35年)松山市から、名誉市民の称号を授与され、翌1961年(昭和36年)には、関用紙店印刷所50周年記念出版として、人物篇・考証篇・史論篇33論考を収録した『伊予史論考』を上梓刊行した。
主要業績
[編集]- 『伊予史料の研究』、1915年
- 『伊予史精義』、1924年
- 『伊予史の研究』、1934年
- 『伊予文化史研究』、1954年
- 『伊予史論考』、1961年
- 『伊予史点描』(遺稿集)、1970年