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昭南神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭南神社

完成間近の昭南神社
所在地 当時の昭南特別市マクリッチ水源地英語版
主祭神 天照大神
創建 1942年(昭和17年)11月
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昭南神社(しょうなんじんじゃ)とは、第二次世界大戦中にシンガポールを占領した日本軍が市内のマクリッチ水源地英語版内に建立した神社である。1942年10月に竣工し、1945年8月の日本軍降服後に取り壊された[1]

照南神社

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1922年2月11日、シンガポールでゴム園を経営していた大平源四[2]は、トムソン路英語版がアッパー・トムソン・ロードに名を変える辺りにあった自己のゴム園内に「南神社」を建立した[3][4]。祭神は天照大神で、名目上の神官として永田重彦氏が管理していた[3][5][6]。戦前の在留日本人からは「大神宮」として親しまれ、正月や七五三、結婚式などに参拝していた[3][6]

拡張計画

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1942年2月、日本軍のシンガポール占領直後、第25軍参謀・林忠彦少佐は、当時在留日本人の家庭で使用人をしていて、戦乱の中で家の裏にあった祠の御神体を安全な場所に移していたという2人のマレー人を表彰すると発表し[7][8]、更に市の職員に「戦前からシンガポールにあった神社や祠の管理はどうなっているか」と尋ねた[7]。職員が「今は占領直後で、電気水道の修理や混乱した市内の秩序回復に忙しく、神社まではとても手が回らない」と答えると、林は「狂信者に特有の、物凄い憤怒の形相」をあらわし、「貴様等のそういう根性が腐っているのだ。神社にまで手が回らないとはなにごとだ。何のための秩序回復か。さっそく皆と相談して具体策を立てて持って来い」と怒鳴った[9]

間もなく照南神社を拡張し[5]、シンガポール郊外のマクリッチ水源地英語版西端のシンガポール・アイランド・クラブ・ゴルフ場オランダ語版にかかる一帯に、新たに「昭南神社」を建立する計画が発表された[9][10]

ジョホールスルタンは神社建立のため軍政監部財務部に5,000ドルの寄付をしたとされる[5][11]

造営

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軍司令部は、横山部隊[12]に神社造営を命令し、工事は1942年5月頃から同年10月までの間[13]、連合軍の捕虜2万人を使役して行われた[14]。建設途中、乾季が終わろうとする頃に、横山部隊はインパール作戦参加のためビルマへ転進し、田村部隊(工兵第5連隊)が工事を引き継いだ[15][16][17]

1942年10月に昭南神社は竣工した[18][19]。ゴルフ場のクラブハウスの横からコースを横切って参道が作られ、西から水源地に注ぐ小川を五十鈴川に見立てて、その上に朱塗りの太鼓橋が架けられ、橋の前後に鳥居が立てられ、玉砂利を敷き、橋を渡ったところから石段を造成、拝殿と神殿は日本から運んだ檜材を使い、総檜造りで建てられた[14][20]

遷宮祭

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竣工後、神社の管理は昭南特別市に移され、日本から中村社司とその補佐として本田神職が着任して、1942年11月[21]佳日に「昭南神社遷宮祭」が行われた[22][23]大達市長が斎主となり、寺内南方軍総司令官以下が玉串奉奠をし、その後現地人各団体代表が礼拝した[22][23]

式典後、神社は一般に開放され、山下パーシバル会見のフォード工場英語版などとともに戦跡見学のルートとなって、日本人のほか現地人の多くが訪れた[24][25][26]

参拝の強要

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1943年1月20日に開催された「サルタン会同」[27]の前には、マラヤ・スマトラ各州のスルタンによる昭南神社の訪問が行事に組み込まれ[28]、第25軍司令官・斎藤弥平太中将は、イスラム教徒であるスルタンを昭南神社に参拝させた[25]

鎮座祭

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1943年2月15日には、シンガポール陥落1周年記念に併せて鎮座祭が盛大に行われた[3]

破壊

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篠崎 (1976, p. 205)は、1945年8月18日第7方面軍司令官板垣征四郎大将から麾下の部隊長、軍政監部・市政庁の幹部に降伏が告げられると、翌日以降、忠霊塔や昭南神社の爆破、破壊が行われたとしている[29]

サイレンバーグ (1988, pp. 212–213)は、昭南神社は解放時に(連合軍の)グルカ兵によって取り壊された、としている[30]

跡地

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日本の降伏後、サイム路[31]沿いあった連合国人の抑留所も解放されて、閉鎖されていたゴルフ場が再開された[25]

2004年現在、シンガポール・アイランド・カントリー・クラブのブキット・コース3番ホール地点に、そこから対岸に渡るかつての太鼓橋と、拝殿に至る石段、その途中にある手水鉢の遺構が残っている[3]

脚注

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  1. ^ この記事の主な出典は、リー (2007, p. 102)、シンガポール日本人会・史蹟史料部 (2004, p. 167)、サイレンバーグ (1988, pp. 212–213)、二松 (1987, pp. 78–81)、許 (1986, p. 230)、篠崎 (1978, pp. 62–64)、篠崎 (1976, pp. 212–214)および津吉 (1953, pp. 111–113)。
  2. ^ ブラス・バサー路英語版ラッフルズ・ホテル近くで「大平洋服店」を経営していた(シンガポール日本人会・史蹟史料部 2004, p. 30)。
  3. ^ a b c d e シンガポール日本人会・史蹟史料部 2004, p. 167.
  4. ^ 許 (1986, p. 230)は、1938年頃、シンガポール日本人会が、島の北部、市区から5.5マイル離れたトムソン路英語版の丘の上、永福虎(えいふく とら)所有のゴム園の中に「照南神社」を建立した、としている。
  5. ^ a b c 許 1986, p. 230.
  6. ^ a b 篠崎 1978, p. 62.
  7. ^ a b 津吉 1953, p. 111.
  8. ^ 篠崎 (1978, p. 62)は、1人のマレー人が、照南神社のご神体である御幣とお札を保管してフォート・カニングにあった警備隊司令部に出頭し、華僑粛清のため軍司令部から警備隊司令部に派遣されてきていた林少佐に感謝されていた、としている。
  9. ^ a b 津吉 1953, p. 111-112.
  10. ^ 篠崎 (1976, p. 212)では、神社の設営にあたり後述の横山部隊が昭南島内の景勝地で伊勢神宮の地形に似た場所を物色して場所を選定したとしているが、津吉 (1953, p. 112)では建設予定地も含めた計画が発表された、としている。
  11. ^ 小田部 (1988, p. 149)によると、ジョホールのスルタンは1942年9月13日に「忠霊塔記念寄附」として軍政顧問だった徳川義親に5,000円を渡している。
  12. ^ 第15独立工兵連隊(二松 1987, pp. 78–81)。マレー作戦で英軍が破壊した橋梁の復旧工事に携わった(篠崎 1976, p. 212)。
  13. ^ 二松 1987, pp. 77–78, 80.
  14. ^ a b 篠崎 1976, pp. 212–213.
  15. ^ 二松 1987, p. 79.
  16. ^ 篠崎 (1976, p. 213)では、神社の完成後、横山工兵大佐は「造園の天才」と称賛された、としている。
  17. ^ 横山部隊の兵士は捕虜に対して高圧的に接し日常的に平手打ちなどの暴力を振るったため評判が悪く、田村部隊の将兵は捕虜に対して対等に接したため、捕虜に感謝された(二松 1987, pp. 78–81、エドワーズ 1992, pp. 70–71)。特に田村部隊の態度は他の日本軍部隊の態度とは大きく異なっていたとされる(同)。
  18. ^ 二松 1987, p. 80.
  19. ^ 竣工時期について二松 & 11987, p. 80)は1942年10月に忠霊塔と同時に竣工したとしており、式典が挙行されて、神社建設に使役されていた捕虜は同年11月に泰緬鉄道の建設現場に移された、としている。津吉 (1953, p. 112)では1943年の正月には大部分が完成していた(がまだ未完成だった)としており、篠崎 (1976, p. 213)では遷宮祭の開催を1942年11月の佳日としているが、篠崎 (1978, p. 63)では1943年初の佳日としている。なお忠霊塔については小田部 (1988, p. 149)において同年9月10日に除幕式が行なわれた、とされている。
  20. ^ 津吉 1953, pp. 112.
  21. ^ 篠崎 (1978, p. 63)では、1943年初。
  22. ^ a b 篠崎 1978, p. 63.
  23. ^ a b 篠崎 1976, p. 213.
  24. ^ 篠崎 1978, p. 64.
  25. ^ a b c 篠崎 1976, p. 214.
  26. ^ 津吉 1953, p. 113.
  27. ^ 第25軍軍政監部がマラヤ・スマトラ各州のスルタンをシンガポールに招いて会議を開き、スルタンの回教の首長としての地位・尊厳と財産所有権を公式に承認した(小田部 1988, pp. 150–151)。
  28. ^ 小田部 1988, p. 151.
  29. ^ シンガポール日本人会・史蹟史料部 (2004, p. 167)は、建立した軍自らによって爆破された、としている。
  30. ^ リー (2007, p. 102)は解放軍によって取り壊された、としている
  31. ^ Google Maps – Sime road, Singapore (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年4月11日閲覧

参考文献

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  • リー, ギョク・ボイ 著、越田稜 訳、シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ 編『日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半』凱風社、2007年1月。ISBN 9784773631029 
  • シンガポール日本人会・史蹟史料部『戦前シンガポールの日本人社会-写真と記録 改訂版』シンガポール日本人会、2004年5月21日。 
  • エドワーズ, ジャック 著、薙野慎二・川島めぐみ 訳『くたばれ、ジャップ野郎!-日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録』径書房、1992年7月10日。ISBN 4770501102 
  • 小田部, 雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年。ISBN 4250880192 
  • サイレンバーグ, ジョン・バートラム・グァン『思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々』幻想社、1988年。ISBN 4874680550 
  • 二松, 慶彦「昭南島の頃」『「南十字星」創刊20周年記念復刻版』、シンガポール日本人会、1987年6月、74-82頁。 
    • Geoffrey Pharaoh Adams (1976). No time for geishas. Leo Cooper London からの抄訳(二松 1987, pp. 75)
  • 許, 雲樵(著)、許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)(編)「5 昭南時代の新聞事業」『日本軍占領下のシンガポール』、青木書店、1986年5月、227-235頁、ISBN 4250860280 
  • 篠崎, 護「シンガポール占領と『昭南』時代‐私の戦中史‐」『「南十字星」10周年記念復刻版‐シンガポール日本人社会の歩み』、シンガポール日本人会、1978年3月、57-79頁。 
  • 篠崎, 護『シンガポール占領秘録‐戦争とその人間像』原書房、1976年。 
  • 津吉, 英男(著)、田村吉雄(編)「乱れた軍政」『秘録大東亜戦史 6. マレー・太平洋島嶼篇』、富士書苑、1953年、108-120頁。