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星山晋徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
星山 晋徳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県 豊橋市
生年月日 (1938-07-07) 1938年7月7日(86歳)
身長
体重
180 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1958年
初出場 1958年
最終出場 1965年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

星山 晋徳(ほしやま しんとく、1938年7月7日 - )は、愛知県豊橋市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

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中京商業高では、甲子園に3回出場。2年生時の1955年夏の甲子園は控え選手であったが、1年上の長坂育也(日立製作所)、同期の安井勝の両投手を擁し準決勝に進出。しかしこの大会に優勝した四日市高に敗退[1]

1956年春の選抜一塁手、四番打者[2]として出場。順調に勝ち進み、決勝で安井が県岐阜商業高清沢忠彦に投げ勝ち、優勝を飾る[3]。同年の夏の選手権は準々決勝で米子東高に敗れた[1]。同年秋の兵庫国体にも出場。決勝では甲子園で敗れた米子東高を、延長10回1-0で降し優勝を飾る。他の同期に捕手鈴木孝雄 外野手の富田虎人(中日)、1年下に控え投手の本間勝、控え捕手の小川敏明がいた。

1957年11月8日に本間とともに大阪タイガース入団が発表された[2]。当時の一塁手のレギュラーは藤本勝巳で、さらに同期のライバル遠井吾郎がいたこともあり、出場機会は少なかった。しかし1960年には一軍に定着、代打が中心ではあったが62試合に出場、うち10試合には一塁手として先発した。

同年オフに伊奈努横地由松との交換で、西尾慈高と共に中日ドラゴンズに移籍。しかし移籍後は3試合の出場にとどまり1年で国鉄スワローズに再度移籍。一年目の1962年には飯田徳治に代わり一塁手のレギュラーを獲得。翌1963年も定位置を守り、自己最多の12本塁打を放つが打率は低迷。1964年には、移籍入団の小淵泰輔と併用され、その後は代打を中心に起用された。1965年限りで引退。

1962年7月21日後楽園球場での対阪神タイガース戦では一塁の守備についていたが、同僚の村田元一投手があと一人で完全試合達成という場面で27人目の打者・西山和良の打球の処理を誤り、村田の快挙を潰してしまった(記録は内野安打、試合結果は村田の1安打完封勝利)。しかし、村田はその後しばらく星山には口も聞いてくれなかった、という(星山自身の引退後の証言による)。

現役最晩年の1965年6月24日明治神宮野球場での対広島カープ戦では本塁打を放ったものの、一塁走者を追い越してしまったために、幻の本塁打になってしまった。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1958 阪神 19 14 14 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 6 0 .071 .071 .071 .143
1959 9 10 10 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .200 .200 .200 .400
1960 62 79 73 0 13 1 0 0 14 4 0 0 0 1 3 1 2 5 1 .178 .231 .192 .423
1961 中日 3 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1962 国鉄
サンケイ
121 382 357 23 74 10 1 5 101 28 2 4 2 2 13 0 8 68 6 .207 .251 .283 .534
1963 113 313 289 24 66 6 0 12 108 34 3 2 0 3 20 2 1 49 4 .228 .281 .374 .654
1964 111 273 246 18 67 10 0 4 89 28 3 4 1 3 23 3 0 33 4 .272 .335 .362 .696
1965 89 232 210 19 43 8 1 3 62 15 1 1 0 0 21 0 1 33 6 .205 .280 .295 .575
通算:8年 527 1305 1201 84 266 35 2 24 377 109 9 11 3 9 80 6 12 198 21 .221 .276 .313 .589
  • 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に球団名を変更

背番号

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  • 6 (1958年 - 1960年)
  • 16 (1961年)
  • 28 (1962年 - 1965年)

脚注

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  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ a b 内田雅也 (2012年3月27日). “猛虎人国記(21)~愛知県(中)~「鶴の恩返し」伊藤敦の連投 江夏支えた「ダンプ辻」”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002919490.html 2013年8月18日閲覧。 
  3. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年

関連項目

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