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明智頼重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
明智頼重
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 康永元年(1342年
死没 応永30年3月9日1423年4月19日
改名 多宝丸(幼名)→頼助→頼重→浄栄(法名)
別名 次郎、彦九郎(通称)
戒名 大龍寺殿宗碩浄栄大居士
官位 兵庫助、民部少輔
幕府 室町幕府
主君 足利尊氏義詮義満
氏族 清和源氏頼光土岐氏明智氏
父母 父:長山頼基
母:堀口貞満の娘?
尾張高国の娘?
遠山太郎光直の娘?
養父:明智頼兼
兄弟 頼重兼貞頼隆(頼澄)[1]岩手満頼(外山頼行)、一色直氏
明智頼兼の娘
頼篤肥田頼寿頼利頼衛頼秀(彦六)[2]九郎山岸頼慶室、揖斐友雄室、ほか女子3名
特記
事項
いずれも「明智氏一族宮城家相伝系図書」による
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明智 頼重(あけち よりしげ)は、南北朝時代から室町時代の武将。美濃国可児郡明智城主。美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。子孫を称する人物としては本能寺の変を起こした明智光秀が著名。

略歴

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美濃国池田郡で生まれた。可児郡の明智荘を領して明智氏を称した。

観応2年(1351年)従兄[3]にあたる明智頼兼の養嗣子となり[4]、土岐明智家の家督と、可児郡明智荘・同郡の姫郷・尾張国海東郡宮村の地頭職を相続した。

その後は養父と同じく可児郡明智城に在城し、また足利将軍家に仕えて従五位下に叙任したとされる。

明徳元年(1390年)出家して浄栄と号し、家督を嫡男の頼篤に譲っているが、その際に可児郡13郷、土岐郡15郷、多芸郡13郷の所領が頼篤へと安堵されており、頼重の代に明智氏は美濃国内に勢力を拡大している事がうかがえる。

応永30年(1423年)明智郷にて82歳で没した。

兄弟には丸毛氏の祖となった兼貞、日比氏、あるいは藤田氏の祖となった頼澄(頼隆)[1]岩手氏の祖となった岩手満頼(外山頼行)がおり、また子には嫡男・頼篤のほか、肥田氏を称した頼寿、池田氏を称した頼利福島氏を称した頼衛惟任氏と称した頼秀(彦六)[2]、米田氏を称した末子の九郎がいたとされる。

以上は、明智氏の後裔を称する宮城氏の『明智氏一族宮城家相伝系図書』による略歴であり、実像は不明。

参考文献

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注釈

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  1. ^ a b 官職は下野守鈴木眞年著『百家系図稿』巻12 別伝「明智系図」より)。
  2. ^ a b 尊卑分脈
  3. ^ 父・頼基の甥である土岐頼忠頼清(頼宗)の子)の兄にあたる。
  4. ^ 続群書類従』所蔵の「明智系図」では養子縁組の記載はなく、単純に土岐頼基の子とされている。