早田喜稔
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早田 喜稔(そうだ よしとし[1][2]、1894年(明治27年)6月10日[3] - 1975年(昭和50年)4月12日[4])は、日本の実業家。帝国化学工業社長[1][2][5]。族籍は東京士族[1][6]。
人物
[編集]東京府出身[5]。佐賀県士族で内務省土木技師の早田喜成の長男[1][7]。早田家は代々の佐賀藩士で、父祖は槍術指南役を務めた[2]。
1912年、東京府立第一中学校を卒業[8]。1913年、家督を相続[1][2]。1915年、第一高等学校を卒業[9]。1918年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業[1][2][10]。新田ベニヤ製造所重役を経て1935年、帝国化学工業を創立[1][5]。
趣味は読書、打球[1]、テニス[2]、ゴルフ[5]。宗教は曹洞宗[1][2][5]。住所は東京府東京市大森区(現・東京都大田区)田園調布[5]。
家族・親族
[編集]- 早田家
- 父・喜成(1864年 - 1913年、旧佐賀藩士、佐賀士族) - 早くから理工学を研究する[7]。内務省土木局に出仕し、第一区土木監督署技師である[7]。また内務省東京土木出張所技師兼内務技師である[11]。住所は東京市麹町区(現・東京都千代田区)永田町二丁目[7][11]。
- 弟・重成(1913年 - ?、帝国化学工業技師)[2]
- 妹・キヌ(1896年 - ?、大阪、新田長三の妻)[1][6]
- 妻・喜代子(1901年 - ?、東京、広田孝一の妹)[1]
- 長男・喜望(帝国化学工業取締役兼研究部長)[5]
- 娘[1]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第14版 下』ハ83頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第13版 上』ソ6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月25日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年、は125頁。
- ^ 青山霊園の墓碑より
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第15版 下』補遺27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月12日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第6版』に6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月11日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 初版』は127 - 128頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月20日閲覧。
- ^ 『東京府立第一中學校創立五十年史』三 本校出身者47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月12日閲覧。
- ^ 『第一高等学校一覧 昭和6至7年 附録 卒業生氏名』大正四年176頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月12日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』学士及卒業生姓名 工学士 応用化学科217 - 218頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月25日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第2版』は150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月20日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 東京府立第一中學校編『東京府立第一中學校創立五十年史』東京府立第一中學校、1929年。
- 『第一高等学校一覧 昭和6至7年 附録 卒業生氏名』第一高等学校、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。