早川兼揚
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時代 | 明治、大正、昭和 |
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生誕 | 明治4年2月4日(1871年3月24日) |
死没 | 昭和13年(1938年)2月14日 |
改名 | 常彦(初名) →兼揚 |
墓所 | 東京芝白金瑞聖寺 |
主君 | 島津忠義、島津忠重 |
氏族 | 早川氏 |
父母 | 父:兼知、母:貞 |
兄弟 |
兼揚、文子(和泉豊介の妻)、清志、鉄、綱 以下、側室の子:四郎、重盛、今子、申子、福子 |
妻 | 登女(税所誠之介の娘) |
子 |
悦子(西脇宗吉[注釈 1]の妻)、兼敏、嘉、 兼通、兼茂、兼英、 豊(稲木重彦の妻)、兼菫、 澄(平郡宏[注釈 2]の妻) |
早川 兼揚(はやかわ かねあき)は島津家の家令。早川兼親家の初代から4代が島津家より拝領の書画・文等を歴史的資料として島津家へ返納した。
生涯
[編集]- 明治4年(1871年)2月4日、鹿児島にて生まれる。
- 島津家に給仕として仕える。
- 家従。
- 東京伊皿子大園寺(大円寺)の杉並への移転が決まったことにより、絶家した早川兼武家の墳墓を東京芝白金瑞聖寺へ改葬。さらに、早川兼親家の墳墓も東京芝白金瑞聖寺に新しく建てる。新しい墳墓完成するまでの間、貞(母)、幾彦(叔父)、申子(異母兄弟)、嘉(次女)、多嘉(叔母:祖父・早川兼彜の養女)を東京鮫洲海晏寺に葬る[注釈 3]。
- 家扶。
- 家令心得。
- 昭和2年(1927年)昭和金融恐慌により、島津家の資産運用において損失を出したことにより、引責退職。
- 昭和13年(1938年)2月14日、東京市芝白金今里にて死去。享年67。
人物
[編集]奉職歴
[編集]- 島津家、給仕。
- 島津家、家従。
- 島津家、家扶[1]。
- 島津家、家令心得。
出典
[編集]- ^ 『大正過去帳』P136「早川兼知」