日調 (池上本門寺)
表示
日調 | |
---|---|
1428年 - 1501年 | |
号 | 大運阿闍梨・常住院 |
生地 | 上総国伊北荘 |
没地 | 武蔵国 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺院 | 長興山妙本寺・長榮山本門寺 |
師 | 常住院日隆 |
廟 | 長榮山本門寺 |
日調(にっちょう、正長元年(1428年) - 文亀元年10月8日(1501年11月18日(ユリウス暦))は、室町時代の日蓮宗・法華宗の僧。号は大運阿闍梨、常住院とも称する。長興山妙本寺及び長榮山本門寺(両山と称する)8世。上総国伊北荘の出身。父は狩野朗舜で母は幸善尼。
略歴
[編集]正長元年(1428年)、上総国伊北荘の豪族・狩野朗舜を父に幸善を母に生まれた。[1] 幼少の頃に、妙本寺院家・常住院の日隆を師として得度剃髪した。享徳元年(1453年)25歳の時に、両山7世・塵劫院日壽から両山を継承し池上に住する事となった。生家の上総狩野氏は、大鷲阿闍梨日山が両山4世となって以降、両山や身延山久遠寺に外護を尽くしてきたが、[2]一族の日調が晋山してからは日調の俗兄・狩野友清(入道行蓮)[3]を中心として更に篤い帰依を寄せたと伝えられている。その結果、伊北荘の豪族であった山家氏や庄内氏も帰依する事なり、同荘内の諸寺院を精力的に建立し両山の末寺とした。また文明年間に妙本寺が火災によって諸堂を失った際には、狩野・山家・庄内の一族が挙ってその復興に尽力したと伝えられている。このような護持を承けた日調は、約50年の在位の間に上総・伊豆を始め各地に巡錫し日朗門流の拡大に精力的に努めた。その結果、500とも700とも伝えられる学僧が参集し、両山は一大法城の様を呈する事となった。文亀元年(1501年)10月8日に74歳で死去。
主な開山寺院
[編集]- 栄久山光福寺(千葉県いすみ市大野)
- 法受山妙厳寺(千葉県夷隅郡大多喜町)
- 熊野山妙光寺(千葉県夷隅郡大多喜町)
- 経王山浄宗寺(千葉県夷隅郡大多喜町)
- 八声山調顕寺(千葉県夷隅郡大多喜町)
- 妙福山妙提寺(千葉県勝浦市市野川)
- 高運山法蓮寺(千葉県勝浦市鵜原)
- 興林山宗隆寺(神奈川県川崎市高津区)
- 井立山妙田寺(静岡県沼津市井田)
- 妙法山蓮華寺(静岡県沼津市戸田)
- 妙高山栄源寺(静岡県伊豆市小土肥)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『本化別頭仏祖統紀』/六牙院日潮 著・梅本正雄 編・兜木正亨 監修/本山本満寺/昭和48年(1973年)11月1日
- 『池上本門寺史管見』/石川存静/大本山池上本門寺/昭和41年(1966年)
- 『日蓮宗事典』/日蓮宗事典刊行委員会 編/日蓮宗宗務院/昭和56年(1981年)10月